明治以降の弓道の達人たち

私的な話になりますが、私はプロ野球が好きでした。昔の夢はプロ野球選手になることでした。今でも野球を見たり、調べたりします。

スポーツ界では、スター選手が存在します。もちろん武道でも、柔道も剣道も、その道の達人がいます。

弓道の世界でも弓の達人と言われた人はたくさんいます。あの徳川家康も弓道の達人と言われていました。終始弓を離さなかった人と言われていました。書によると毎日弓を引くことを死ぬまで続けられたそうです。

ここでは明治以降で弓の達人と言われた人を紹介します。

梅路見鸞
1892-1952年


弓道家。明治以降、弓道雑誌「武禅」を出版。この雑誌は弓道界に多大な影響を与えた。

伝説
約50メートル離れた大きさ約10センチの的を二本連続して射抜いた。見ていた人間が「人間業ではない」ともらすと梅路は「もちろん」と言った。

門弟が冬の朝、外で弓を射る稽古をしていた。流儀の動作をひとつ省いて矢を射たところ、雨戸、障子の締め切った家の中で寝ていた梅路が起きて「馬鹿、なんという様だ!」と一喝。家の中にして、外の弟子が動作を省略したことを瞬時に理解したということである。

阿波研造
1880年-1939年

弓術家。弓聖と称される。術(テクニック)としての弓を否定し、道(精神修養)としての弓を探求する宗教的な素養が強かった。

伝説
「心で射る弓」。目をほとんど閉じた状態で狙わずに当てるという射を行った。

ドイツ人哲学者オイゲンヘリケルは日本文化の探求のため弓術を研究することになり、阿波に弟子入りした。しかし、狙わずに当てるという阿波の教えは合理的な西洋哲学者に納得できるものではなく、ヘリゲルは本当にそんなことができるのかと師に疑問をぶつけた。

阿波は納得できないのなら夜九時に私の自宅に来なさいとヘリゲルを招いた。真っ暗な自宅道場の中で線香の灯がゆらめくのみで的が見えない中、阿波は二本弓を放った。一本目は的の真ん中に命中。二本目は一本目の矢筈(矢の先っちょと思ってください。)に当たり、その矢を引き裂いていた。

このとき阿波は「先に当たった甲矢(一本目の矢)は大したことはない。数十年なじんでいるあづち(的の後ろの土の壁)だから的はどこにあるか知っていたと思うでしょう。しかし、甲矢に当たった乙矢(二本目の矢)・・・・・これをどう考えますか?」とオイゲンに語った。
ヘリゲルはこの出来事に感銘を受け、弓の修行に励み、後に五段を取得している。

吉田能安

阿波研造に師事を受け、その才能を発揮した弓道の達人

日光東照宮の社前で行われた武道大会において、司法大臣、県知事、弓道範士らが列席する中、武将兜を串刺しにつらぬいた。

その他、明治以降で弓道界で多大な影響を与えた人として、本多流という新たな弓道の流派を確立した「本多利実翁」がいます。

本多利実翁

弓道の流派は様々であり、具体的には小笠原流、日置流、・・他、日置流から派生したものもあります。印西、道雪、雪荷、竹林等・・・・・・

そんな中、新たな流派として「本多流」というものを確立した方です。本多流は尾州竹林流から出たもので正確には「日置流尾州竹林流本多流」と言います。

明治初期は欧化万能のときで、弓道は全くすたれ、他の武道も全くすたれていました。そこで、弓道と体育との調和を持たせるのを目的に本多流では、弓の初作に実利的な流派と礼儀的な流派を取り入れ、新時代に弓道の達見(すぐれた見識)をしました。

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