「自然な離れ」という言葉を気にしすぎると、かえって離れ動作が悪くなる理由

足踏みから引き分けまで適切に行えば、最後は離れの仕方、要領を理解する必要があります。最後の離れで無駄に力が入ったり、拳の通る軌道を間違えたりして、矢が真っ直ぐに飛ばないことがあるからです。

したがって、最後の離れの出す仕組みや原理についても詳しく学ぶ必要があります。ただ、弓道の世界では、離れに関して詳しい説明がなく、動作を正確に説明できる人がいません。

・離れは自然に出さないといけない

・葉についた雨粒がぽとりと落ちるように自然に離さないと

・爆発力を効かせて離す

特に、離れにおいては「自然な」「無駄がないように」など具体的なことを言っているようで言っていない指導が行われます。指導者はこれで教えた気になるし、聞き手は何を言っているのかわからないので混乱します。

ただ、このような抽象的な言葉は、教本の引用元を見ると明確にわかります。その上でわかることは、「自然の離れ」という動作は存在しません。自然の離れという言葉ができたのは、戦後、教本ができてからです。それより前の弓道の書籍には、適切に離れで行わなければいけないことが明確に記されています。

このような指導を受けてきたみなさまは「そのような抽象的な言葉」に振り回されないようにしてください。「自然な」「爆発力」などといった言葉にとらわれると、かえって離れ動作が悪くなることがわかっているからです。その具体的な内容について解説していきます。

自然の離れとは「高格の離れ」ではなく、「たとえ」で使われていた

「自然の離れ」という用語は弓道教本ができてから、強く言われたものと強く推察されます。昔の文章を見ると、離れについて肩、肘関節をどのように動かさないといけないかが明確に記されており、あくまで離れにおける「自然」というのは「たとえ話」で使われていました。

どういうことか具体的に記します。まず、弓道教本の文章の大部分が引用されている「射學正宗」には以下のように記しています。

後肘垂れざれば矢を發するに勢なし此の如く肘垂れて拳平脱すれば気質煙火の性泯然として露はれず、ごんば(ヤンマのこと)水にとぼして輕揚活發なるが如く瓜熟し蔕(へた)落ちて全く天然に出づるが如くしゅにして矢出づること豆の如く細に衝きて的に至る

(下線部が自然の離れにおける「たとえ話の文章」、それより手前がそのためにやるべきことが書かれている)

この文章を見る限り、自然の離れは存在しないことがわかります。あくまで、「○○すれば、煙のように後かたなく、瓜が熟するとぽとりと落ちて自然のように」という風に、抽象的な言葉はたとえ話に使っているに過ぎません。

そして、このようなたとえ話を実現するための具体的な方法は、「気質煙火・・・・・・」の前の文章にきちんと記されています。ここでは割愛しますが、射學正宗を見ると、「この自然のように離すために必要な筋肉の使い方から弓の押し方まで全て記されています。興味があれば読んでみてください。

(一つだけ、この文章の一部分だけをみて、「離れ」のやることを勉強しても内容を理解できません。必ず原文を最初から最後まで目を通してみてください)

(「肘を垂れる」の一文も、これは「肘を垂直に立てる」という意味ではありません。一部分の文章だけ切り取って解釈すると、「間違った指導」をしてしまい、聞き手に不合理な身体の使い方を伝える危険があります)

 

教本三巻には、自然の離れに対する勉強不足を示唆する文章がある

さらに、教本三巻を見ると、自然の離れに対して問題視する一文も記されています。

「射學正宗」に災いせられたものと思うが、軽の離れと言うのがある。軽く放せというのである。・・・・・・・梨わりだの、稲葉の露(いなばのつゆ)だの、雨露離(うろり)だのと、ただ軽くポンと放すことを高級の射のように説いたものだから、明治時代の弓法のお粗末さは、因をここに発していたのだろうと今でも思っている~祝部範士~

この文章を見ても、やはり今日の弓道教本の書かれている「自然の離れ」「無念無想の離れ」「雨露利の離れ」といった文章は、「射學正宗」からきていることは間違いありません。そして、「○○になれば、自然のように離れる」と説明せず、「自然の離れ」でないといけないと自然の離れのフレーズだけを強調しました。

これによって、今日の弓道の世界で「自然の離れ」で納得の行く説明がなくなりました。離れにおける抽象的な文章は「よくわからないもやもやしたもの」ではなく、古くの文献を調査すれば、きちんとした記述がなされているのです。

注意:上の引用文の祝部氏は「射學正宗の批判」のために書いているわけではありません。祝部氏はこれ以外に多量に弓道書籍を勉強されており、きちんと調べているので、射學正宗の解釈もきちんと取り入れて弓道を行っています。「軽の離れ」の「軽」は引用文で「軽く」と解説しています。しかし、原文を見ればわかりますが、これは「軽く」と翻訳しません。これらの内容もあくまで皆でわかりやすく伝えるため、あえて「誤訳」を書いていると推測されます。

「自然の離れ」の表現は、射學正宗からきています。そして、射學正宗では、自然に拳が動くようにしなければいけないことを左肩の使い方から、右肩、右肘の使い方まで詳細に記されています。

そのため、私たちは、「自然の離れをしよう」と頑張るのではなく、「○○をすれば、自然に拳が出せて、離せる」の○○の部分をきちんと勉強する必要があります。

高段者が離れの説明ができない部分

このことからわかるとおり、離れの説明は「○○すれば、自然に拳が動き、離れ・・・」の○○の部分を理解して初めて内容が理解できます。そのため、この文章を見なければ、どれだけ段を取っても離れの文章や内容は理解できません。

それを象徴する一例を上げます。ある地方の講習会で高段者に「離れはどのようにすれば良いか」について、質問をしたときに回答を記します。

回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「弓は練習するのではなく、いかに「弓を練るか」ということを考えれば、自然の離れがわかってくる」

「離れにおいては、「澄まし」を理解することが大切であり、この「澄まし」を実践することで、離れはきれいに出る、この澄ましは小さいころはたくさん出るが、私たち大人になると心に何かが混ざってこの澄ましが出なくなる」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いかがでしょう。このように、離れの説明を聞くと、「弓を練る」「澄まし」という言葉がわからないため、離れで何をしなければいけないかがわからなくなります。明確に「○○すれば自然の離れになる」という説明をしていないため、おそらくどのような人が聞いてもわからないと思います。

なぜ、このような説明になってしまうのでしょう。あくまで私の推測の話ですが、「本当に自然の離れ」をわかっていないからと考えられます。

その人が射學正宗の文章を原文から見て一から読めば、自然の離れの由来、やるべきこと、やってはいけないことまで説明できるはずです(なぜなら、原文には全て書かれているからです)。しかし、それができず、他の流派の言葉が出てきて、精神的な言葉が出始めた瞬間に、「原文を読まれていない」と強く推測されます。

もし、このような事態が陥った場合、高段者であっても、話の内容をきちんと精査するようにしてください。そのような教えによって、思考停止になって「離れ」の正しい知識が勉強できないようになってもその人は責任をとってくれません。あなたの射はあなた自身によって変えていかないといけないです。

従って、「権威の高い人が言った」ことであっても、「本当は間違えているのでは」と疑いながら聞くようにしてください。そのようにすれば、離れがゆるんで重度の射癖にかかって元に戻せない事態を回避し、年齢を重ねても弓道を健康的に長く続け、仕事、弓道、日常生活とパフォーマンスが伸びていくことは言うまでもありません。

手首の力を抜いて、離れを出すやり方に対する忠告

ただ、弓道の世界の中には、「自然の離れが存在する」と力説する人も中にはいます。それは、右手指先に弦をかけることで、自然の離れが出ると解説します。

・中指先と親指の指先近くで取懸けをする

・指先で取りかけており、弦と指との接触面積が少ないため離れ動作で弦が離れやすい

・この動作こそ、軽くサット離すと解釈でき、あたかも自然のように離れている

このような説明で「自然で無理のない離れ」と解釈する人がいます。その場合、中指と親指をこすりつけるのを「石をこすって炎があがる鉄石愛剋の離れ(吉見順正の射法訓の文章の一文)」と解釈するようです。

あるいは、的中率が高い人は皆このように行っていると解説し、むしろそのように取りかけずに離す人のやり方が違うと反論をあげます。

ただ、そうであるならこの解釈には矛盾が多く生じます。

まず、射法訓を記した吉見順正は「剛弓(=強い弓)」を引いていました。強い弓というのは、23,4kg程度のものではなく、40kg程度の弓です(強弓の数値は、「本田流弓術書」に弓のkg数の定義の文章記載あり)とこの背景から考えると、吉見順正が指先近くで取りかける手法を使っていたとは考えられません。実際に30kg以上の弓を引き、稽古すればわかりますが、30kg以上の弓を指先近くで取りかけて引けません。もしも引けたとしても、矢束一杯に引き込めません。

さらに、指先の力を抜き、離す手法を強く嫌った弓道家がいます。「弓と禅」の登場人物である「阿波研造」です。阿波研造の弟子であるオイゲンヘリゲルは、上記に記した通りに「指先の力を少しずつ抜いて、離れを誘い出す」手法で矢を放ったところ、阿波研造に弓の引き方から、心構えまで喝破されたエピソードがあります(現代弓道講座一巻に記載あり)。

そのような理由から、指先近くに取りかけ、力を抜いて、自然に離すことは推奨できません。心と体を素直に鍛える弓道に、手首の力を作為的に抜いて矢を放つ稽古はナンセンスと解釈できます。

あるいは、指先近くに取り懸けて、「軽く放すように工夫する」ことも行うこともナンセンスです。指先近くにかければ、弓を引くために大きく体が使えません。全身の筋肉を最大限に活用し、矢の長さいっぱいに弓を引き、大きく離すことで、「大きな充実感」を得ることを優先するべきです。

自然の離れを理想とし、昔より雨露離とか、梨割り、朝嵐、或いは四部など教訓で導いているが、いずれも抽象的で、これを満足に理解し、実際に現すことはできないのである。要は心身ともに緊張充実して、障り無く素直に、併もすがすがしい離れ方である。これをもって理想の離れとして十分である。~松井範士~

まず引き分けで矢束一杯に引くことを考えましょう。その上で離れを無意識に行うとか、スムーズに出そうとか思わず、離れ動作を行うように意識します。

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