次に、離れの文章に記載されている「未来身」について解説していきます。
では、原文を解説します。
この4つに未来身これあり、父母の収まり未来心とて、離れの前と離れの後との骨法をよくよく心に知ること肝要なり、口伝これあり。未来心ということは、離れの後に心を残すことを言われ、
経武に曰く、この4つに未来心ということこれありというは、誤りなるべし。未来身この4つに限っては、あるまじきことなり。この次に言うにてあるべきよう、次の字を二の字に誤って、後々に4つの字に書き違いたるべしと申されべし。この次に未来心という心にしては離れの後にして言い足る未来心 故に言うなるべし, 父母の収まりは左右の合い収まるところを言います 離れの前なり皆離れの前後の覚悟を言うことなり.
🔳ポイント
・未来身は「離れの前と後の骨法を見ると理解できる」
・心を観察すると解る
・離れた後の覚悟を指す。
これだけポイントがわかれば、未来身は容易にわかります。では、いきます。
🔳良い離れの状態を「未来身」で観察せよ
正しく弾けて離れがきちんと出ているかどう判断するか?この未来心という概念「離れの前と後での骨法」で理解できます。
その未来身の意味とは、「離れの後に心が残ること」です。
🔳余韻が残るとは違う
よく、現代の弓道では「離れた後に余韻が残る」と解説されますが、これとは違います。
離れとは、「会者必離」という言葉からきています。お互い人とあって繋がりができることが「縁」と言います。そして、その縁は必ず離れます。
みな、人やものは離れていくから、会の間によき因を作りなさいというのが「会」の教えであり、「離れ」の考え方です。
余韻が残るとは、会の最中に力が入り、離れた後にその力みが取れたり残ったりするから「余韻」が残ります。それは、会という過去の状態から気持ちや思いが残っているという「執着、囚われ」が残っていると考えられます。
未来身の文章には「離れの前の覚悟」と表現されています。覚悟とは、気合い、行動が決まって、具体的な期日や結果をしっかり決めることを指します。
すごく断定的に決める離れの未来身に対して、離れた後に無駄な余韻はありません。私たちが残すべき者は「体の中にある何かしらの余韻」ではありません、「心」なのです。
では、心とは何が残るのでしょうか。そこでポイントとなるのが、
心の働き
頭の働き
筋肉と骨の働き
これらを分ける必要があります。一つずつ分けて解説します。
🔳心とは:最初に感じる頭の知覚を指す
この文章で言われる心は、私たちと同じ「心」を指します。つまり、物を見たり聞いたり、何かをするときに何かを感じます。この時の知覚する感覚を「心」と言います。
色々な心の感じ方があります。「会でちょっと力が入った状態から、離れで力が抜けた状態」「会でも離れでも力が抜けた状態」「会で力が入って、離れでも体幹部に力感がある状態」
様々な心の状態から、一体どの感覚が適切かつ自然な心の状態を指すのでしょうか?そこで、次に頭の働きが関係します。
🔳頭の働き:人は過去や未来は想像できるが、体で過去や未来を体感はできない
今から未来のことを想像してくださいと言われたどのようにしますか?大部分の人は頭の中で
・30分後にハンバーグを食べよう
・将来の夢は野球選手になることだ
といったように、未来のことを考えると思います。すると、頭の中で未来のことを考えると、その未来の世界がイメージできて、あたかもその未来の想像の中にいるような感覚が得られますよね。私たちは過去も未来も想像することができます。
しかし、体で感じたことを考えてみましょう。別に、頭では未来を妄想してワクワク感があったとしても、体は別に劇的に変わるわけではありません。人は過去も未来のことを想像したとしても、それは「現在、頭で未来を想像した」だけにすぎません。つまり、想像したことも未来のことではなく現在のことです。
私たちは、頭で未来や過去を想像したとしても、体では「現在、未来のことを想像しているだけの状態」です。つまり、常に「今」を生きていることがわかります。そのため、未来のことを想像してもそれは「今」であると理解すると、「余韻が残る」という表現がいかに無駄な考え感情であるかがわかります。
🔳余韻が残るのも、今別の感情に触れただけにすぎない
たとえば、「手首の力を抜いて、無駄な力みなく離したい」と想像したとします。
そうすると、会の時に「手首の力を抜こう」と意識します。そして、右手首の筋肉を緩めようとします。その状態を維持して離したとします。
すると、射手は離れた後、右手首にかかっていた力みが抜けて、まるで自分が無駄に力んでいた右手首の力みが抜けたので、「
しかし、これは別に右手首の力みを抜こうとしたから抜けたわけではありません。頭では「右手首の力みを抜こうとした」想像力によって、体が後で右手首の力みが抜けて、離れた後に右手首の力が抜けたのだと思います。このように文章で書くとまるで、右手首を抜ける未来を想像し、未来そのことが実現下かのように感じます。
しかし、体ベースで見ますと、右手首の力を抜こうとしていた時もその時体は何かしら弓を開こうと「今」筋肉が働いており、離れた後は、その時の「今」で力が解放されるように筋肉が働いた。その時新しい「今」に新しい体の状態になったにすぎません。
つまり、整理をすると、頭の中では「未来こうしようああしようと複数のことを未来想像をしていた」という無駄なことが起こっていて、体の中ではその思考に影響されてその時体の一部の筋肉が緩まったり力が入ったりしている」ということがわかります。
これは、単純に無駄に考えているだけ、力を入れたり抜いたりしているだけとわかります。
だから、私たちは正しく弓を開き、離したければ、無駄な考えも筋肉の動きもなくす必要があります。無駄な思考や筋肉の働きを取り払った後に、正しい邪のない心の状態が残ると考えることができます。
その、無駄な物を取り払うためにはどうするか?「骨法と筋肉の関係」を理解してください。
🔳骨法、全身の筋肉を全て伸ばせば骨が四方に伸ばされる
骨法とは「曲がっている骨の状態を正しくまっすぐに揃え、弓を押し引きする」ことです。
普通、弓の圧力は姿勢が正しくなければ、筋肉で押すことになります。筋肉を縮めて、骨や関節をしっかり堅固にすることで、弓の圧力がかかっても姿勢がぶれないようにします。
今、弓を握って持ってください。その握った状態で弓を押し込むと手のひらの筋肉に圧力を感じて弓を押せているでしょう。これが「筋肉で弓を押す」感覚です。
一方、全身の筋肉を胸を中心に伸ばしてください。胸を中心に伸ばすと、鎖骨、肩、腕の筋肉が緩んで伸ばされます。
このように、全身の筋肉がのび太状態でもう一度弓を持ってみてください.弓を押そうとすると、先ほどのような手のひらの圧力感がなくなります。これは、筋肉を固めて弓を押していないからです。弓を骨で押しているともいえるでしょう。
骨法とは、そのように、筋肉を固めずに、骨で押している状態を指します。この身体の使い方を覚えると、未来身の離れの理解が深まります。
まず、頭の中の変な未来妄想を全部とってください。こういうふうに弓を押そう、力を入れようという気持ちは一切捨てて、まずシンプルに胸から中心に肩、腕の筋肉を伸ばしてみて、ずっと広げ続けてください。
そうすると、胸の筋肉から体が伸びている感覚だけが残ります。次にこの感覚を残した状態で、弓を軽く持って開いてみましょう。そして、矢を離してみます。
そうすると、弓を持った時の胸の開いた感覚が、離れたあとでも残るのではないでしょうか。矢を放ったその時、あなたは胸が開かれているなと感じるでしょう。
そして、その感覚って未来も残っているように思いませんか?上記したように、あなたは離れた後の「今」、胸を開いているなとしか感じられません。しかし、過去と今が胸が開かれているのを考えると、おそらく感じることのできない未来でもあなたは胸が開いているといえます。
文章の「心が残る」を読解すると、頭の無駄なものをなくした結果、体に残るものです。変な迷い矢思いを全部消した結果、体には胸の中心から離れている感覚が残ることがわかり、その感覚はこれからもずっと続くものとわかります。
私たちは未来を想像できますが、体では感じられません。しかし、正しい姿勢で弓を引けば、自然に未来まで「胸が開いている身体」が残っていると言えます。
🔳なぜ、骨法は胸から始まるのか?
現役の弓道関係者は骨法と言われるとこのような知識を持っています。
筋肉で押すのではなく、骨を押す。
この考えは合っているようで間違っています。というより、「骨を意識して押す」というふうに考えている時点で、それは骨法を生かしたことになりません。そのように、頭の中で骨法と意識して弓を押す必要はありません。
骨法は「押す」為に使うのではなく、「伸ばす」為に使います。筋肉と骨と心はリンクしています。これを尾州竹林では「皮肉骨」と表現していて、自然に力を抜けた姿勢を作れると、心が落ち着き、筋肉が伸びて、関節が伸びマス。
心、筋肉、骨が一体になっていると考えて、「心落ち着けば、骨が伸びる感覚が得られる」と考えます。
例えば、弓を握って、手のひらの筋肉を固くして弓を押してみてください。手の中で筋肉に圧力がかかった感じが出ると思います。これは筋肉で押す感覚です。
次に、手のひらの筋肉を柔らかくして、その状態で弓を押すようにしてください。すると、筋肉ではなく、さらに奥の部分から押されている感覚、弓の圧力を受けているという感覚が残っていると思います。これが骨法です。
では、手のひらの筋肉だけでなく、肩や胸の筋肉もリラックスさせてください。その状態で、弓を押すと圧力が腕、肩、胸にも響くと思います。
もし、あなたが心を最大限に落ち着けて、筋肉も緩めたとします。すると、弓のかかる圧力の最終地点は胸になると思います。
そして、その心と筋肉が緩くなった状態で矢を放したとします。すると、最終的に開いた感覚が得られる部位は胸になると思います。
離れでは、骨法が重視されます。なぜなら、骨で押している感覚、
つまり、未来身を考えると、
・最終的に人は、胸から弓を推している感覚、胸が開いている感覚が残る
・それは、未来を想像でしか感じられらないとしても、きっと未来は
胸が開いている
と言えます。
だからこそ、骨法で体の状態を観察することが大切になります。理想の離れの状態を観察する為には、最終的に胸が開いた感覚が残っているか、それ以外の感覚がなくなっているかを観察することが大切です。
1最初に胸を開く
2それ以外の筋肉、腕、肩、胸の筋肉の詰まりをとって上げる
3最終的に、胸が開く感覚が残り、それが未来まで続く
という意味で「未来身」になります。
🔳🔳ここまで大切な「胸」の役割
ちなみに、当サイトの尾州竹林弓術解説においては、「胸を開く」ことをとても重要視し、解説しています。
日月身の胴造→胸を開いて、上半身を太陽(日)のごとく、開くほど、首の後ろは月のように沈むがごとくやすまる(月)
反橋の軌道→胸を横に開けば、自然に両拳が反橋の軌道になる
鸚鵡の離れ→胸から開き、両拳から離れれば、拳が鸚鵡のごとく、みたままを真似るように無心に離れる
ここまで胸の筋肉を開くように強調している理由として、「胸はあらゆる面」で大切だからです。
まず、禅の修行法の一つとして、「坐禅」があります。坐禅では、呼吸に集中して、背筋を伸ばして心を落ち着けるようにします。その際に、初心者が姿勢を伸ばして、呼吸に集中する状態を作るのに、胸を意識させるのは有効です。
あるいは、腕を伸ばす時も、胸から開くことを集中することが大切です。腕を伸ばす時、腕を意識するより、胸から意識して腕を伸ばした方が、よく伸びるのを体感できると思います。
🔳🔳離れの「会者必離」の意味、
弓道教本には、離れは「会者必離」という言葉が記載されています。この言葉の意味は、会う者は必ず離れる。という自然の摂理を解説しています。
これを仏法では、「会う者は離れるのが自然なことであり、だからこそ、その縁に良き因を作りなさい」と解説しています。
適切に会に入り、離れで気持ちよく離れる瞬間は一瞬です。その一瞬とは、「胸が開く感覚」です。
もし、引き分けで腕や肩の余計な力みが抜けた状態で開けば、胸が開く感覚が残ったまま会の段階に入れます。そして、そのまま腕や肩に余計な力みがないままに、離れの状態に至れば、胸を開いて会に入り、その胸の開く力のまま離れに至ったと言えます。
例えば、弓の圧力をあなたがこれから人生でである様々な出来事、物、人とします。そして、あなたが弓を開いていくとします。通常であれば、弓の圧力という外側の力によってあなたの心や体は影響を受けて、力が入ったり意識がとらわれたりします。
そこで、先ほどの「全身の力みを抜く、胸を開く、胸から腕脚を動かしていく」ように意識します。すると、弓を開いてから離れるまで、胸を開くという意識を維持して、弓を開いていけます。この時、自然に物や出来事に会い、それらにとらわれることもなく、動作ができたと言えます。
もし、あなたが心と体が整っていれば、最初から最後まで余計な意識が出ないで弓を開けます。弓の圧力があるのに関わらず、そのことに囚われずに動作ができたこの経験はまさに「良き因」と言えるでしょう。
普通は、その外側の力や出来事に影響を受けて、本来の自分の心と体の状態が変わってしまう可能性があります。それらの影響に対して、心を落ち着け、柔らかく受け止めて、静かに離れた時、会者必離の状態を得たと言えるでしょう。
🔳🔳余韻が残る離れは悪い離れである理由
ここまで解説すると、「余韻が残る離れ」が悪い離れであると考えられる理由がわかると思います。
「体に何かしら余韻が残る理由は」、凝りや不快感が軽減されるからです。
例えば、会で肩や腕の筋肉が力んでいたとします。その状態で弦を離すと筋肉が伸びて解放される感覚が出てくると思います。
この開放感が出ると、人は「何かしら余韻が残った離れ」が出ているとわかります。
しかし、尾州竹林では、弓を引く前も、会でも離れでも「胸を開いた状態」を適切とします。つまり、会でも余計な力みがなければ、離れた後の開放感や余韻はむしろなくなるのが自然です。
もし、余韻があるとしたら、その手前の動作で何かしら無駄な力みや心の状態が出ていると言えます。
最悪なのは「会でも力んでいて、離れでも力みが残っている状態」です。会でも腕の筋肉が縮んでいるし、離れでもその力みが抜けていません。
以上の内容を理解することで、離れの完成系がわかります。