弓道の世界で、余計な悩みなく弓を引くためには、本の勉強をすることが大切です。そこで、教本の内容の「会」の内容を勉強すると、弓をどのように引かないといけないかが明確になります。
ただ、これまでの弓道の指導において「会」の説明はどれも抽象的な表現が多く、何をすればよいかが具体的にわかりませんでした。そのため、会における心構えを聞くと幅広い回答が返ってきます。
・会は会者定離である
・会では伸合詰合を意識して
・会では縦の線から横の線が出るように意識して
実は、このように会で抽象的な表現が多いのには理由があります。さらに、このような「抽象的な言葉を理解しよう」とすると、弓の引き方自体が悪くなってしまい、引き分けや離れ動作が悪くなってしまう事例も多くあります。
したがって、今回の記事では、「会で抽象的な理由が多い理由」「その抽象的表現が理解できない理由」「それを理解しようとするとどのような弊害が起こるか」について解説させていただきます。会では、細かいことを考えないようにしてください。弓を精一杯引くことが弓道を上達する具体的な近道となります。
教本2、3巻の解説 手順 適切な会を行うために、「抽象的な表現」を無視する https://rkyudo-riron.com/kyou23_hikikai/kai *ここの記事を読んでいます 安定した会を身に着けるためには「肩周りの筋肉」を活用する https://rkyudo-riron.com/kyou23_hikikai/kai-2 「西半月の位なり」に沿って狙いを定めても矢が真っすぐに飛ばない理由 https://rkyudo-riron.com/kyou23_hikikai/kai-3 |
会で抽象的な表現が多い理由
なぜ、抽象的な表現が多いかというと、弓道において会では「脳にかかる刺激」が強く、充実した感情が得られるからです。具体的に、「前頭葉」と呼ばれる分野に刺激がかかります。
この部位は、全身運動を行うときなどに、酸素と血液が多く供給させられます。会では身体の関節に最も負荷がかかっている状態であり、体内の筋肉が最も活動し、脳に送られる血液の量も最大量に達します。すると、前頭葉の刺激によって感情や思考が起こります。
前頭葉の役割として、「思考」があります。つまり、弓を引いた運動・体験をしたときに「次は〇〇しよう」「■■のような感じだった」と、運動や体験に関して感想を言ったり、考えたりするときに働きます。そのとき起こった感情や体感を「言語化」しようとしたときに前頭葉が活動的になります。
つまり、弓道における全身運動を行うと、動作している最中のことや終わった後のことに対して何か感情がわき、思考したくなるのです。そして、その動作は、最も反発力が高くて「弓を引き、矢を放つ」という弓道で主となる動作である「会」で起こります。
感情に対する捉え方は複数ある
そこでわかることが、様々な感情や言葉が生まれること自体は、特殊なことではないことです。会のときの状態を「気持ちいい」「楽しい」「つらい」と思う人がそれぞれいますが、それらは複数あって当然です。
例えば、「涙を出している」という感情があります。すると、周りの人は「涙が出ている=泣く=悲しそうだ」と思う人がいます。しかし、「うれし泣き」という感情もあります。つまり、「泣く」という体の変化でさえも、どのような感情になるかは真反対のものがあります。
つまり、会における「凄く集中して緊迫した状態」に対して「楽しむもの」と解釈する人がいれば、「つらいもの」と解釈する人もいます。「宇宙」と思う人もいれば、「会は永遠」と感じる人がいます。
人の感情の豊かさや創造的な思考力は、脳の大きさや体格で決まるものではなく、複数の神経細胞が張り巡らされ、そのつながりができることで、様々な感情や考えが現れます。そのつながりや神経間のネットワークは個人の体験が積み重なることで、新たに作られます。
つまり、弓道の稽古をすればするほど、会において様々な表現が出てきてしまうものは、脳の仕組みから考えると「普通」なことです。
抽象的な表現が「わからない」理由
会における表現は、様々な内容があるのは「脳と感情を司る神経間のネットワークのつながりが無限に作れるから」です。そのため、会の表現は抽象的になり、誰もその言語化された感情をどのような感覚か想像ができないです。
なぜなら、言語化しにくいこと、感情に対しては、「その人のこれまでの経験の中であった」ことや、高度な言葉によって、表現しようとするからです。
例えば、ある職業では一つの動作に高い集中力が発揮されたとき、以下のような「感情」「体験」になったと説明している事例があります。
・野球の世界「ボールが止まったように見えた」
・レジ打ちの世界「レジの数字キーがピアノの鍵盤のように、打つのではなく、奏でるかのように滑らかに動作ができるようになった」
・陸上の世界「100mの世界で、普段なら自分の脚での力でゴールに近づいていく感覚でしたが、ゴールが僕に向かって近づいていく感覚で動いていったレースがあった。そのときのレースが自身の新記録であり、大会で一位を取った」
いかがでしょう。言葉だけを聞けば、「そんなことがあるわけがない」と思うかもしれません。しかし、この人達は、「本当にそのような感情になった」と思ったからそのようにお話しします。
つまり、会での抽象的な表現は、その人たちには間違いなくあった出来事なのです。しかし、その感情を第三者にわかるように言葉を言い換えていないので、「わかりにくい、理解しがたい」と感じます。
このように、弓道の世界では、本人の体験や経験の中から語られる内容があります。これを昔では「口伝」といわれ、本人から口で伝えられることで聞き手は理解します。
もちろん、それらの言葉から、「本当に実在した現象」を再現することは可能です。しかし、それを解き明かす作業は非常に困難であること、加えて誤解や解釈の誤りを起こすことがあります。さらに、このような充実した体験の中には「仏教用語」が絡むときがあります。「無になった」「光がさすように」など、修行僧や仏教の世界ではこのような体験があります。
私自身も寺院関係に長く務め、働いていた時があります。ある日、3時間以上墓掃除をしていたとき、ふいにほうき自体が軽くなって、葉っぱがキレイに風に吹かれて一か所にまとまっていくように墓場がキレイになっていった体験もしたこともあります。
人の特別な感情は「その人が行ってきたこと」「高度な言葉」を活用することで初めて表現されます。その表現に何を使うのかは個人の自由です。そのことを、花にたとえてもよいし、「仏教用語」に例えても問題はないのです。
昔の弓道家では、会の状態で仏教用語を使う人がいます。あるいは、動作の一部分に価値を持たせて表現する人もいます。同じ動作であっても、会という表現に対して、思うところが異なります。
ただ、仏教用語の言葉を本当の意味で理解するのであれば、私たち全員が「仏教の世界」を体験しないとその本当の意味はわかりません。したがって、会における抽象的な表現は、体験自体が個人的な思想レベルまで行きついているために、「わからない」のです。
「ボールが止まったように見えた」という言葉を知っているだけで、その人が努力し研鑽したことで「ボールが止まったように見える」ように感じるでしょうか。その感覚は、「その人にならないと本当の意味はわからない」ものです。したがって、特別な感情や表現はどれだけ勉強したり調べたりしても、本当の意味はわからないのです。
抽象的な表現にこだわって失敗した実例
したがって、このような表現はすべて無視してかまいません。わからない内容はわからないままでおいておきましょう。むしろ、その言葉にとらわれて、言葉や言葉自体の意味を気にしだすと、様々な問題が起こります。
以下に私があってきた弓道関係者について、会で抽象的な表現にこだわった結果、失敗してしまった例について解説していきます。
・「伸合・詰合」と言われて
会のときに、「伸合詰合だから、とにかく伸びて」と先生から指導されました。どこをどう伸ばせばよいかがわからず、とにかく会に入ったら、一杯に引こうと思って右腕を目いっぱいに後ろに引きつけようとしました。
しかし、その結果、矢が押せなくなったどころか、会が短くなりました。その理由として、会で無理やり引こうとしてしまい、右肩関節が後方に引けて「引肩」になってしまったのです。引肩になってしまった結果、両肩の線が的の線上に合わず、矢が真っすぐに飛ばなくなってしまいました。
(この動作をやめさせた結果、余計な力みが抜けて、弓が放てるようになったと報告 東京都 60代 女性)
・「縦の線から横の線を伸ばすよう」に言われて
指導者に、「縦の線を伸びることで、横の線が伸びるんだよ」と言われました。弓を引いている最中に、後ろから「縦の線を伸ばすんだよ」と言われます。何もしなければ、その人にまた何か言われるかわからないため、弓を引いている最中に「背伸び」をしようとしました。
すると、後ろから見ている人からは、「そうそう」と言われました。しかし、背伸びしようとした結果、胸の筋肉が張りすぎてしまい、「胸の張った姿勢」になりました。そのため、離れで右こぶしが真横に出ず、矢飛びが真っすぐに出ませんでした。
(この内容を説明し、胸の張りをとった結果、各段に弓が引きやすくなり、的中数も上がったと報告 50代 男性 東京)
・「弓と体が一体になっていない」と言われて
弓と体が一体になっていないといわれたため、できるだけ体と弓を近づけるようにしようとしました。会のときには、「頬付胸弦」を意識して、弦を胸に近づけようとしました。
ただ、そのように意識した結果、離れがゆるむようになりました。調べてみると、「頬に弦をつけよう」と意識しすぎた結果、上半身を弓の方に近づけようとしていたためです。これによって、弓に寄り掛かるように上半身が前に傾きすぎてしまい、背筋が曲がってしまいました。
その結果、肩甲骨の可動域が低下し、肩関節の回転機能が低下したために、弓を大きく引けませんでした。その結果、離れがゆるむようになり、矢が前に飛ばなくなりました。
(この内容を説明し、改善させた結果、その場で的中率が向上 広島 30代 男性)
いかがでしょうか。これを見ると、会における「抽象的な教えは、そのまま捉えるとただの害」であるのがわかります。きちんと何を行わないといけないかを明確に言わないと聞き手にも伝わりません。あるいは、勉強する側も明確にするべきことを理解できません。
ちなみに、私が他の弓道関係者にアドバイスをするとき、上記の内容を全て説明できます。解剖学的知識を取り入れながら筋肉を動かし、相手に触らせて体感レベルで理解させます。そのようなことをできますが、私の場合、そのような表現は使いません。「リラックスして」「どんどん引いて」など理解しやすい言葉に落としこもうと努力します。
このように、会での抽象的な表現は、本当の意味でわかっている、説明できる人の話を聞くようにしてください。その言葉だけを聞いても、本当の意味を理解したことにはなりません。
抽象的に書きすぎると、反対の意味で解釈してしまう危険がある
会における「伸合・詰合」「縦線横線」以外に、教本には、多くの抽象的な表現が存在するため、できるだけ無視するようにしてください。これらの表現に対して、余計に考えるようになると、全身の筋肉を使ってのびのびとした射ができなくなります。
加えて、このような抽象的な表現は「反対の意味で解釈してしまう」問題が起こるからです。特に、仏教用語が入っている用語は危険です。解釈の違うと、弓道の稽古の取り組み方から考え方まで変わってしまうため、ひどい場合は、射形が崩れたままでもとに戻せないどころか、元の戻し方すらわからなくなってしまいます。
例えば、一つの例をもとに、「解釈を反対に取り間違える」文章を例に出してみましょう。
会と離れとの間に間(ま)がないと早気になるが、会と離れに移ると煩悩が起こる。このときに空になって離れれば、その矢勢は強くなんとも言えない・これが無心無邪の離れである。
最後に、「無心」と書かれていますが、この無心を「無い」と解釈するか、「他との区別や特徴をなくす」と解釈するかで、この文章の意味合いが大きくわかれます。もし、仏教的に「無」を「他との区別、特徴をなくす」と解釈するのであれば、他の感情を起こすために、いろいろな体験をしなければいけません。
そのためには、射を行って「笑う」「ふざける」「泣く」ということをします。これをしないと、自分の射に煩悩があるかないかがわからないからです。「無心になろうとする」感情自体も仏教の世界ではとらわれている証拠と解釈し、「キレイな状態になりたい」という煩悩にとらわれていると解釈します。
さらに言うと、煩悩という感情は、孔子の記した「礼記」では、人間の一種の感情として認めている一文があります。ということは、「無心無邪の離れ」を体験するためのアプローチを具体的に書かないと、みんな「黙って静かに弓道を行う」という思考にとらわれます。これは、仏教の解釈上、「否」ととらえられています。
一体この文章の「無」はどちらの意味で使用されているのでしょうか?もしも解釈を間違えると、あなたは弓道で不快でつらい体験を永遠にしてしまう可能性があります。したがって、理解を間違える可能性があり、無視するのが適切です。
この他にも、弓道においてこだわりすぎると危険な表現は多くあります。浦上範士は、会の説明で離れ」に至る一瞬時を「やごろ」と表現し、「やごろ」を会得しなさいと表現しています。しかし、やごろを会得する方法は教本二巻には記されていません。
すると、物理的には同じ離れ、同じ右手の離れる速度であるにも関わらず「やごろ」が満たされた離れ、そうでない離れなど言い始めます。このように、名前や特殊な表現をつければつけるほど、どんどんわからなくなります。
なので、無視しましょう。
その人の言葉だけを調べても「どちらの意味でこの言葉を使っているのかはわからない」と思う文章は多く存在します。調べてもわからない内容には、下手に手を出さない方が得策です。これらの内容の言葉や名前だけ取り上げて、会を理解したと思い込んだり指導したりすると、余計に聞き手はわかりません。なので、控えるようにしましょう。
抽象的な表現をカットしていけば、会で行うべきことがわかってくる
「抽象的で理解しがたい」内容は読まないようにして、中には、「調べればまだやるべきことがわかってくる」文章も存在します。このような文章は必ず目を通すようにしてください。
例えば、教本に書かれた文章では、
真の矢束に近づくべく、身、弓、的が全き調和の状態になれるように努める精進の最後の段階を行じているのである。この境地になると自己もなく、弓もなく、的もなく、清浄な気高い雰囲気が生まれてくるようになる~高木範士~
会は決して静止しているのではなく、身、弓、意(三業三心)が全き調和の状態となって、静止しているかに見えるだけである。~高木範士~
この内容は、先ほどのように仏教用語が少ないために、理解しやすいです。「自己もなく、弓もなく、的もなく」と記しています。何回も目を通してわかることが「体のこと」「弓のこと」「的のこと」を必要以上に意識しすぎてはいけないと理解ができます。
すると、弓を引いていて
・適切な会には「自己、弓、的への意識の調和」が必要→必要以上に的を狙ったとする→「的」の意識が強くなりすぎるから、適切な会につながらないのがわかる
・肩関節を引いたり、胸を張ったりする→「自己、弓、的への意識の調和」が会に必要→「自己」もしくは「弓」の意識が強くなり、適切な会につながらないのがわかる
といったように解釈ができます。これによって、会において「行ってはいけないこと」がわかってきます。わかりやすく書かれてある文章から読み解いていけば、会での失敗を未然に防ぐことができます。では、会において具体的にどのようなことを行わないといけないのでしょう。次の回で意識したいことをまとめていきます。