新しい弓道教本:離

最後に離れの内容を解説していきます。

ここまでの打起・引分・会での体の使い方を学んで実践すれば、弓を楽に押し開けるのが体感できました。

次に、矢をまっすぐに離すために離れ動作を勉強する必要があります。しかし、教本で離れの内容を調べてみると、

自然の離れ、無念無想の離れ、鉄石の離れ

こんな具合です。「理想の離れとは何?」と思う感じです。

ただ、心配する必要はありません。

やるべきことと、根拠をはっきり解説していきます。

打起こしは、拝むように高く上げ、引き分けでは両肘をそれぞれ外側に開きます。

そして、会で深く、深く引き続きます。そして、やることは二つだけです。

■大きく離す、それを繰り返す

だけです。そうすると、

・スムーズに離しやすくなる

・体内に、不安感の軽減する神経伝達物質が多く生産される

・結果、大きい離れによって、健全な身体と心を構築できる

ようになります。

では、一つずつ解説していきましょう。

・大きく引けば、スムーズに右手に動かせるようになる

大きく引けば、右手が弦から外れやすくなる身体の原理を理解しましょう。

人の右手は、弓を引いている姿を作り、そこから後ろに引き続けると、次第に外方向に回転します。これで、弦が親指の溝から外れます。

つまり、右手を横に動かし続ければ、弦は親指から外れやすくなります。

大きく弓を引引いた方が良いです。

しかし、これだけを読むと、

「別に小さく引いて、拳を外側に回せば、いいんじゃないの?」

「離す瞬間に暴発させるみたいに右手首の力を抜いて離すのもいいのでは」

と思います。

実際、弓道連盟で「自然の離れ」と言われる者は、後者の「右手首の力を抜く離れ」を説明する人が多いです。

なので、年配者の離れを見ると、離れで右腕が開くのが遅くなることが多いです。

年齢が重なっているため、そのようにしかならないと言われるかもしれません。

しかし、教本に記された自然な離れを目指すのであれば、

・大きく引く

・右手を外側に回す

・上記を繰り返す

必要があります。

このように言える具体的根拠を述べます。

まず、前提として、矢の長さいっぱい引けば、会の時の矢の線が的の中心線に揃いやすくなります。

できるだけ大きく引いた方が、身体と矢の線が近くなり、姿勢のブレも少なくなります。

さらに、右拳を外側に回せば、弦は引っ掛かりなく外れます。さらに、右拳は矢の線上をとおるように動きます。

そのため、矢を向いた方向にそのまま飛ばすことができます。

右手首をひねれば、弦は引っかかって外れにくくなります。肩に力が入って姿勢がぶれやすくなります。離れる時に、右拳は身体より前に出てしまい、矢の線上を通すことができません。

だから、的中するためにも、「大きく」「右拳を外側に回すように矢を離す」ことは大切です。

自然と言う言葉の本当の意味

次に、この動作を繰り返し行った方が良い根拠を解説します。

それは、「自然」と言う言葉の具体的な意味を調べればわかります。

ここで言う、自然な離れは、弓道連盟では

拳をスムーズに離す=自然

となんとなく解釈されます。

違います。ここで言う「自然」とは

自然に心が優しくなる離れ

と言う意味です。

離れで心が優しくなる?

一体何を言っているんだ?宗教か?と思います?

もう少し詳しく説明します。

大きく離れを出すと、脳内で幸福感を出させる「セロトニンホルモン」が発生します。

適切に離れ動作を行うと、幸せを感じとるセロトニンが多く発生します。

心の充足感が強くなり、恐れや迷いの少ない心が養えます。

これまで、弓道の文章の中で

・胴造で恐れのない状況を作る

・七情を取り去る

・会で動かざる山のような射型を作り、静かな心を身に着ける

と言ったように、なぜ弓を引くと「泰然な気持ち」「雑念が取れる」ようになるのでしょうか?

それは、

これは私の主観ではありません。

弓道教本のP156に、具体的に記されています。

教本では、離れは「離し方」は記述されていません。

離れた後にどんな「感情」になるか?が詳しく記されています。

それは、離れた時の感情が身体全体の筋肉を使えているかの唯一の判断方法だからです。

小さく適当に離せば、離れた後に崇高で畏怖感は出てきません。

大きく腕全体を使って離すと、血流は背骨を介して、脳にドクドク流れます。

この時、人は、離れ動作で大きな「爽快感」が得られます。

大きく弓を引きます。すると、全身の筋肉に弓の負荷がかかります。

そして、大きく腕を開く離します。広範囲に縮んだ筋肉が一気に開放されます。

この時に、背筋を介して、大量のセロトニンが放出されます。

このセロトニンには、人間の「迷い」「恐れ」などの感情を軽減し、気持ちが優しくなる作用があります。

このように、恐れ、迷いを取り去る離れこそが目指す離れ、自然の離れです。

だから、古くの弓道では、中てることではなく、引くこと自体に意味があると説いております。

今の弓道連盟は、的中至上主義出会った実利的な射と、精神的な要素を合わせた弓道を教えています。

この、精神的な要素の部分が、本来「引くこと自体で心を整う」ように説いています。

ですので、大きく引いて、大きく離すことは、精神を合わせた弓道を持ち込みたいのであれば、必須です。

軽い弓で、引き尺を加減して、離し方だけを主観的にスムーズに見せているのは、「精神射」という殻を被った「中て射(結局、中りしか考えられていない射という意味で)」になってしまいます。

道場で精神的な抽象的な話をしたいのであれば、矢の長さいっぱいに引かなければいけません。

伸び合い、詰め合いと言いたいのであれば、大きく引かないといけません。

軽くさっと離したいのであれば、大きく引かないといけません。

では、弓道連盟の教本一巻だけを読んでいる人、高段者か実体と根拠のない説明を受けていない人は、まだ「自然=拳をスムーズに動かす」ではないという考えに違和感があると思います。

一つずつ誤解を解いていきます。

■離し方をスムーズにすることより、優しい心を身に着ける必要がある理由

ここまでの話をまとめると、

・とにかく大きく離せ、そうすれば優しい心が身につく

と解説していきましたが、

・え?じゃ的中のことは考えなくていいの?

と思うかもしれません。

はい、優先順位は「大きく離す」ことに注力を捧げてください。決して、引きたらずの状態で手先で離して中てることはしないでください。

手先で離した中りより、的の上部を疾走のごとく突き抜ける外れを目指してください。

後でしっかり中りも出てきます。

なぜか?不安感を減らすことが、的中を増やすことにもつながるからです。

人の身体は、無意識の間に考え事をしてしまう生き物です。大体、考え事を2秒以内に一回行うと言われています。

これは、脳のデフォルトネットワークと呼ばれ、無意識の間に人はいろいろなことを考えています。

外界からの影響により、無意識に感情が発生します。特に、離れ動作とは、的中、変な迷い、自分の身体の状態など、様々なことが気になってしまい、脳のエネルギーを消費してしまいます。

この脳のデフォルトネットワークを減らす一つの方法が特定の動作に集中することです。

例えば、座禅や気功を行うと頭や心がスッキリします。

なぜなら、二つの動作を行うと、脳のデフォルトネットワークが抑えられるからです。

研究によると、弓道においても、デフォルトネットワークを抑える脳波が放出されることがわかっています(しっかり身体を使うことが前提ですが)。

ですので、「大きく引くこと」に集中した方が合理的です。

引き分けを小さくすると、身体を大きく使えず、いらないことを考えてしまう元になります。

弓道の開祖である「日置弾正政次」は、弓によって、外界に動じない、恐れのない状態を構築することが目的と解いています。

それは、的中を出す上でも必要不可欠です。

しかし、ここまで聞いてもまだ、

やはり、「スムーズに離す」ことにこだわりたいと思います。

いわゆる、

無意識な離れ=自然な離れ

と解説する先生です。

もう一度、言います。「スムーズな離し方」なんて弓道で考えないでください。いらない考えです。なぜなら、

■無意識の離れ=スムーズな離し方ではない

からです。

なぜなら、人間の動作は、

どんな動作でも何回も繰り返せば、無意識な離れになるから

です。

そもそも、スムーズに動かせば、どのような動作も無意識に行えるようになります。

こんにちの弓道のような手先の力を一瞬抜いて緩んでるような離れも、

大きく両腕を開いた離れも、

だから、無意識に拳が動く離れを「自然に離せている」と解釈するのは間違っています。

「無意識な動作」はどのような形であっても、繰り返していけば無意識な状態で離せるようになるからです。

こんにちの弓道では、

余計なひっかりなく、自分の意識をなく離すのが適切の離れ

と解く人が結構な数をいます。

だから、弓道連盟の中には、控えが柔らかい弽を用いて、

会の手前で「いつ、暴発しそうな感じで離れてもおかしくない」感じで離そうとする先生がいます。

暴発のようにいつ外れるかわからない間に離れる離れを無意識な自然な離れと時ます。無意識に離れた離れと解きます。

それは「自然な」離れとは言えません。

大きく引いて離す動作も繰り返せば、「大きく離す」動きも無意識になります。

いつ離れるかわからないような離れる動きも、大きく離す動きも繰り返せば「無意識」のように離すことが可能です。

だから、無意識な離れ=自然な離れとはなり得ません。

次に、どちらの動きを無意識な動きにさせた方がいいかを考えていきましょう。

A,いつ拳が弦っから離れるかわからない「暴発のような離れ」

B,両腕を最大限に伸ばす「大きい離れ」

当然、Bを無意識レベルにまで行った方が良いです。

Bの離れを無意識にしておけば、歳をとって筋力を衰えてもAの離れのように出せます。

Aの離れを経験が浅いうちに繰り返してしまうと、「大きく引く感覚」がわからないため、緩んだ離れから改善できなくなります。

暴発のように離れを出すのが理想にした場合、右拳の動きが小さくなります。すると、弦が矢を押し出す力が弱くなって飛ばなくなってしまいます。

Bのような大きな離れを繰り返した場合、高齢になっても、矢を押し出すため「要領」「感覚」を体で記憶しています。

そのため、大きく引いて大きく離すことを繰り返す方が合理的です。自然に優しい心を身につけるために、スムーズに拳を離せるようにするために、

剣術の達人である黒田鉄山は次のように解説します。

「初學者に熟練者のように、最初から力を抜くような技を教えてはいけない、そうすると、力の抜きどころも力の入れ方もわからなくなるからだ」

ほかの武道でも言われているように、いきなり熟練者の動きを教えるのは間違いを生む元になります。

高段者は、離れ動作を右腕を緩めるように離します。

対して、大きく両腕を降った離れを行うと、「学生みたいな離れではなく、もっと軽くサッと離すようにしなさい」と言います。

このようなアドバイスによって、何人もの人が緩み離れをきっかけにいろいろな射癖が出てしまったら、最悪です。

では、ここまで自然の離れの内容を解説してきましたが、

私が言っているのではありません。

弓道教本の先生が「大きく引いて、離す」重要性を解説しています。

 

強く離れを出すために、身体を大きく使え

まず、強く離れを出すためには、目一杯弓を引き、大きく離さないといけません。それを示唆する文章としては、千葉範士の文章が当たります。

千葉範士:心身ともに誠に尽くし、・・・殊更に作為的な離れではなく、また上下に離れず力の働いている自然方向に向かって一本に離れるのが理想である(二巻P149)

千葉範士:風船玉が張り切ってパッとこわれる状態と同じ(二巻、P149)

風船が割れる様=大きく離して身体全体を開いている様と同じ意味ですね。

千葉範士:打起こし引かぬ矢束を身に知らせ胸より双に伸びて離せ

この内容も大きく引いて離すように間接的に解説しています。

そのほかにも、離れ動作では、「大きく引いて、離すこと」の重要性について話されている先生の文章を取り上げていきます。

宇野範士:初心者は殊に右前膊を大きく働かせるのが良い。若い人は自然に大きく、老人は自然に小さくなる。(二巻P150)

祝部範士:会に入って充実の頂点、照尺がぴったり合うた時、強く大きくの表現にまで、心を配って有念有想に、意識的に放して中てると言うのが、どうして悪いのだろう。(三巻、P185)

浦上範士:ちょうど左手と右手とで糸をピンと張って、他人がその糸を鍛で切れば、両手は左右に緊張した惰性のために、自ら求めずして左右に開くのである。(2巻P151)

これらの内容っは、強く弓を引き、大きく離すように解説しているのが分かります。

例えば、弓道の世界では

胸の中筋から離す

などと言われますが、

胸の中筋から開くためには、大きく引いて、身体全体の筋肉を使って離す必要があります。

宇野範士:順正は、離れは「胸の中筋に従い、左右にわかるるどとく離すべし」と言っている。離れは押手で押し切るものではなく、勝手で放し切るものでもない。胸の中筋、すなわち身体の中央を貫く縦の線にしたがって左右に分かれるように離せと教えたのである(二巻、P153)

神永範士:自分の身体がくさびとなれば、自然にパンと割れるのである。会の均衡と伸びを母体とすれば、離れはその子であり、弦音は生まれた子の産声である。(二巻、P157)

鈴木伊範士:要則曰く「胸郭を広く開き矢を発せしむ」と、(P182、3巻)

高塚範士:精神力、体力、弓力を調和しつつ、最高潮に達した瞬間、無意識のうちに矢が弦を離れたのが、すなわち理想の離れと言うべき。

祝部範士:我が信条とするところは、大と強である。大は大きく放せである。(三巻、P191)

これだけの先生が、大きく引いて離せと解説しています。ですので、矢の長さいっぱいに引いて、精一杯に離すようにしましょう。

そうして、軽くサッと離す離れは、お粗末であり、大きく引いて放った離れは適切な離れと言えるのでしょうか?

それは、

大きく開いた後は、自然と優しい気持ちになる

からです。

神永範士:弓の圧迫に対して己が心を燃やしていくと、色々の差別雑念がおのずから消え、五欲七情を脱却し、万法はそのまま純一無雑、真空の状態になり、精神が統一されれば、方向転換して一になり、無に還元してまたそこから始まるのである。(二巻P152)

いかがですか?この文章を見てみると、

大きく放つことで、心が優しくなると解いているとわかりませんか?

何も知識がない状態でみると、精神世界を語っているように見えます。

しかし、次のように解説したらどうですか?

いっぱい弓を引くと、

弓の圧迫に対して己が心を燃やしていくと

引くこと自体に意識がいくため、脳のデフォルトネットワークが消える

色々の差別雑念がおのずから消え、五欲七情を脱却し、

その状態で離れると、セロトニンが脳内で発生し、多幸感が出る

そのまま純一無雑、真空の状態になり、精神が統一されれば、方向転換して一になり

その動作を繰り返せば、その「正常な心の状態」が自然になる

精神が統一されれば、方向転換して一になり、無に還元してまたそこから始まる

どうでしょう。神永範士の言っていることが、矢の長さいっぱいに引いて離してを繰り返せば、心が優しくなり、その状態が続くと解釈できるとわかります。

この自然の離れは、決して「うまい人間」しかできない高尚な技を解いているわけではありません。

純粋に精一杯に引いて離った結果、得られる感情を解いています。

つまり、大きく引いて離れたあとに充実感が得られれば、その離れは成功と判断できます。

神永範士:雑念を消す力を持って居り、万人の心を洗って清浄心を養う(二巻P152)。

それは、神永範士だけがこのことを解説していません。

松井範士:邁進する勇気と決断力を必要とする。・・・・・・障りなく素直に、併もすがすがしい離れ方であれば、これをもって理想の離れとして充分である。(三巻、P187)。

高塚範士:穏やかさなうちにも、雄大さがなければならない。(三巻、P190)

松井範士は「離れで心が清々しくなればそれでOK」とはっきり解説しています。

大切な部分はシンプルに大きく引けるかだけ。的中よりも、形よりも、離れた後の充実感を優先しないといけません。

どれだけ的中が出ても、手先で離して身体を使わなければ、心と身体が鍛えられません。

形が整っていても、押し引きを加減しているのであれば、離れた後の充実感は喪失します。

離れた後に身体に充実感があるか否かは死活問題です。

この重要性を理解されていない弓道家は、離れ動作で手を抜くことも「自然な離れで素晴らしいもの」と誤解を生みます。

精神的な言葉を先行して満足するのはやめましょう。

「離れでは爆発力がないとだめ」「離れでは無心になれ」「離すまで離れで縦に伸びながら横に伸びる」など、

こういう口だけ高尚な内容を語って満足するのはやめましょう。

と、範士の先生が言っています。

祝部範士:梨割だの、稲葉の露だの、雨露離だのと、ただ軽くポンと放すことを、高級の射のように説いたものだから、明治時代の弓法のお粗末さは、因をここに発していたのだろうと、今でも思っている。(三巻、P185)

矢の長さいっぱいに引かなかいばかりに、自分の主観で理想の離れを語ってしまう先生も出てきます。

仏教の世界で「無心」とは、一つの物事に集中した結果、余計な雑念が取り払う状態を言います。

弓道の世界では、「引くこと自体に集中する」ようにすれば、無駄な雑念が取り払うことができます。

それは達人でなければできるわけではなく、弓道初心者でも実践できることです。

しかし、このような用語を勝手な解釈で言い出す先生がいます。

鈴木範士:無念無想の離れの現出は、弓道の奥義真髄なるものに没入し、常識をもって判断し得ない別世界に達しえない世界であるから、その境地に到達し得たものでなければ、為しえない神技だろう(三巻、P182)。

なんと、大きく引いて離す爽快感を離す離れをこのように、「別世界」「神技」であるとよくわからないことを話される先生がいます。それどころか、

鈴木伊範士:今のところ、それは我々にとっては月世界旅行を企てるような夢の世界に属する技と思う。

・・・・その邪念を少しでも消滅させようとする先哲者の、情けある射法の実施上の一つの方便が前に述べた教えである。(三巻、P183)。

大きく引いて離すことを自然や充実感に喩えた内容にもかかわらず、月旅行にいくようなものであり、そのような重要な内容を「邪念を取り去るための便法」と解いています。

大きく矢の長さ引こうとせず、心と身体をたるんだ結果、自分の身勝手な意見を理想の離れと解釈してしまう先生が少なからずいます。

頼むのでこのような世間的に良いとされている先生が勝手に文章の内容を書き換えるのをやめてください。そうしなければ、弓道の本当の意味が伝わらなくなります。

私を含め、明日から的中を捨てて、地道に大きく引いて身体を離してを繰り返すべきです。

軽い弓で理想の離れなんてのは・・・・と言い出したら、どんな高い地位の人間でも堕落に陥ります。

では、ここまで読んで大きく離すことで自然に優しい気持ちになることが適切であるとわかりました。さらに、大離れについて詳しく解説していきます。

左右の腕を斜め下に降ろす

その大きい離れの具体的な指標は

・左右の腕、拳を斜め下に大きく降ろす

離れが適切の離れと解いております。

祝部範士:左手は少なくとも肩の線まではいかなければならないはずである。また、事実良射の人の離れに、左腕が後ろのやや下にいくことは衆知のことである。(三巻、P192)

祝部範士:右手は矢が頬に着いた線、そこで矢が飛んだ後に左腕が少なくとも十センチ計り開落することが自然であり(三巻、P193)

祝部範士:幾センチなどと遠慮せずに、出来るだけ大きく開けと教うべきである(三巻、P193)

より具体的に、離れの時に両腕が動く方向を高木範士は解説しています。

高木範士:肩より先をできるだけ軽く大きく離す・・・・・・・ 。左右の拳の動く大きさは、初心の間はなるべく大きく開く方が良い。左拳は会の時の位置よりも前方へ出ることなく、上がることなく、そのまま後ろ下方PSの方向に動き、右拳も・・・・(同様)(二巻P160)。

要するに、両腕が斜め下に降りるくらいに、最後は大きく開くべきと解説しています。

祝部範士:身体を全体として左腕はも少し後ろに進み、胸から肩を通るまで来て、

頭のために妨げられてはいるが、力の方向はなお後ろに進んでいなければならぬはずである。(三巻、P192)

加えて、「矢と身体の線が近くなる状態」になる必要があります。

神永範士:会は、身体がくさびになることが肝要で、それは矢と両肩の平行線が近いほど離れの重心の移動が少ないから、理想的な離れが生まれるわけである。(二巻、P158)。

そうすれば、少しの意識で、離れ動作にいたることができますね。

神永範士:全身の骨節が緊張するから、体が弓の中に入った感じとなり、弓の圧迫を開放する結果として手が開くことになる。(二巻、P158)。

祝部範士:自然が命ずるままに強き後ろ開きが、射者自身には無自覚の間に例外なく起こることを知るであろう。(三巻、P197)

これができなかったら、手先で離した離れになります。したがって離れた後の充実感が発生しなくなり、修行、稽古をしたことになりません。

神永範士:弛んだり締まったりした離れは真実の離れではなく、養子のようなものである(二巻、P157)

手で離れをうまく作ったのは、上手といえても感銘は浅い(二巻、P159)

この「感銘が浅い」とは、離れた後の充実感が弱いと言うことです。

そうではなく、自分ができる最大限の矢束を常に取り続け離れ動作を行わないといけません。体全体を使うように弓を押し開く必要があります。

高木範士:第一に左角見を大切にし、弓の力を受け押す力が左肘から三頭筋肉その他へ通じ、脊を通って右肘を通うように力の働きを注意して稽古をしなければいけない。(二巻P159)

そのように、身体全体の筋肉を使えば、各部にかかる筋肉の負担は減らすことができますね。

そうすると、あたかも関節を使って、身体を支え、負担なく拳を離すことができます。

高木範士:筋力はできるだけ節約して、骨力を旨として(二巻P159)

骨力とは、骨法を使えと言うことです。骨力を働かせるには、「会」の文章を読んでください。容易に内容を理解できます。

では、ここまで内容を解説して、大きく引いて離れ動作を行う重要性は理解できたと思います。

次は、神永範士、高木範士が解説されている「大きく引けば、無意識に離れ動作に至る」ことができる内容について解説していきます。

右拳に力が加われば、自然と右拳

 

■大きく引いていけば、無意識に自然に離れられるようになる

やがて、大きく引いていけば、その動作が無意識に行えるようになります。

高木範士:意識を用いなくとも、身体全体の気が整って離れの機運が熟すれば、自然に離れていくようになるものである。

この自然の離れが生まれ出るようになるためには、その母体(基礎)である「足踏み」から会までの全てが規矩にかなって、真の矢束がとれていなければ、できないことで

 

安沢範士:会の円成無発延長の中に真の離れが現出するものである。(三巻、P186)

円成無発の言葉の意味は、円のように滞りなく、会で伸び続けることですね。

手先で放って、自分の意識で離す(これを発するとも表現される)のではなく、引き続ければ、自分で意識せずとも矢を離せるようになります。

それを、「無発」と表現しています。この文章を実践するためにも、矢の長さいっぱいに引き、離す必要があります。

 

左手で押切る離れの本当の意味

なお、教本の浦上範士、冨田範士、松井範士、は

押し手できるような離れにせよ

と解説しています。

いっていること逆じゃね?と思うかもしれません。違います。この言葉の具体的な意味は、「右手を放す離れに徹底的に慣れてください」です。

それで、結果的に「押し手で切る離れ」を実現できます。

・引けば引くほど、右手で早くスムーズに離せる

・意識せずともスムーズに離せるようになる

・ほぼ、右手自体を意識せず、離せるようになる

・それと同時に、左腕の開くスピードも早くなる(右で早く放すから)

・最終的に、右手の意識が消えて、左手で押し切るような感覚が残る

以下のように右手を離し続ければ、「押手で切る」ような離れになります。

以上のように、「左手で押し切る離れ」とは、本当に左手で押し切って離すのではありません。

右手の動きがスムーズに慣れて、右手の余計な意識と力みが抜けて、あたかも左手を主体に押し切ったかのように、左腕を伸ばして離れを出すという意味です。

祝部範士:強き左手と言うのは、後ろに開く発機が敏捷に、開く速度が速急なれーと言うことである。(3巻P195)

つまり、やるべきことは、右手で離れを徹底的に無意識になるまで出せと言うことです。

祝部範士:弓は左から放し離れるものであると言うことは、観念上の教法出会って、如何に左から放すと心得てもやはり、前述の順序(右手で大きく引いて、離す)で矢は飛び出す。(3巻、P195)

 

では、祝部範士の言葉の通り、「左手で押し切る離れも右手からできる」と言う考え方を取り入れて、最初に冨田範士の文章をみていきます。

冨田範士:船を繋ぐに竿を立てつなぐなり、船は流れに随い行かんとすれ共、竿に繋がれていくことあたわず。

船は弓手、竿は馬手なり。繋ぎ止めて流れずして釣り合う時、この繋げる綱を真中よりフッと切れば、船は流れて竿はあまさるるなり。この処、弓手・馬手の形なり。

真中にて切れる処、五部の詰め・・・・・この伝は専ら弓手の剛みと、右手・肘力との関係を説いたものである。

つまり、綱を切って、スルーっと船が流れ、竿がバイーンって自然に二つが飛ぶように自然に離せと言う意味です。このように、左右の手がスムーズに離せるようにすればどうすればいいか?

答えは、大きく引いて、右手でスパッと離すと言うことです。

なぜか、冨田範士は、この文章の後半に、

冨田範士:船(左手)により機縁を生じ、胸の割にて断たれるものであろう。

と解説されています。確かに、「左手から機縁」と言う言葉だけを取れば、左手を突っ込むような離れを出すべきと思いたくなります。しかし、そのあとの文章に「胸の割にて」と記されています。

この言葉は、胸の筋肉を開くと言う意味が含まれています。そうするためには、右手で引いて離し、最終的に「左手に圧力が強く意識されて、弓を離すような感覚」を出して行った方が良いです。

なぜ、この文章を間に受けて、左手を強く意識してはいけないか?

理由はシンプルで、そのような離れにこだわると、身体の左側の方に意識がいってしまい。大きく引けないからです。

大きく引くためには「右手」が大切です。教本3巻の祝部範士が、「大の放れは、右手に現れる」と記載されています。それより先に左腕、左手に意識がいってしまうと、右手を動かす意識や気持ちが薄れてしまいます。

そうして、右手を疎かにした結果、大きく引いて離す離れではなく、「力をかけず、軽く出す離れ」が癖づいてしまいます。

そうすると、緩み離れ、後ろ狙い、胴造の崩れ・・・様々な問題が出てきて抜け出せなくなってしまいます。

祝部範士:開くべき左腕は阻止させられて裾押しになり、果ては崩れの前押しさえ構成せられた。

或る教士の人で、左腕の関節がぴくり踊って離れる人がある(3巻P196)

次に松井範士の離れの説明もみていきましょう。主要な部分を書いておきます。

松井範士;離れは、大工が墨をするように、左手を土台としてそのまま据付け、・・・角見より拇指根へと伝わ弓手の誘いが手になって(3巻、P199)

松井範士:先ず、弓手の拇指を的に突っ込むように働かせ、

この文章の内容をするためには、「右手で引いて、右手の動きと意識を減らしていき、左手で押し切る感覚を得る」ように意識しましょう。

さらに、松井範士は、「弓と剣を当てる事」の内容に着いてです。

松井範士:「弓と剣を当てる事」

上下左右に剣を当てられて、その中で放す場合、的の線に伸びる以外、絶対に偏ることは許されない。

この文章のように、左手に余計なぶれを少なくしたければ、右手で大きく離してください。右手で強く離せば、左腕が強く伸ばされます。

このように大きく離すと、左拳は後ろ下に落ちるのではないかと思うかもしれません(三巻の祝部範士のいっているように)。ご安心ください。弓のkg数を減らせば弓手は落ちません。

なお、この後松井範士は、左手で起こる問題が1ー7つあると記されています。それらの問題は、全て、「必要以上に弓を握りすぎている」ことから起こっています。

1、握りが上押しすぎる、捻りすぎる→弓を握りすぎ

2、握りが入りすぎる→弓を握りすぎて指が動かないので、左手首を外に曲げると、入りすぎる

3、握りが控えすぎる→必要以上に握りすぎる

4、手の内が閉まらず、弓を落ちる→会で弓を握りすぎてしまい、離れで力が緩む

6、弓手を突っ張り、肩根が上がり→弓を握りすぎて、左腕が突っ張る

握りすぎの理由は弓道教本の文章で間違った認識で弓を引いているからです(例:会で三指を揃うようにしなければいけないのに、弓構えで三指を揃えると間違った指導をしているなど。)これを解消すれば、

次に、5、7番目の問題は、大きく引かなければ解消できません。

5、弓手の肩根が抜ける→引き分けが小さくなり、右手、右肘の動きが小さいと、左肩が後ろに逃げやすくなる

7、上弦を引いて捻りすぎると、右手拳が「シガ」ミ、矢束が取れず→右手首を捻って引き分けが小さくなったため、右手拳に力が集中する

つまり、松井範士の文章を実践するためには、矢の長さをいっぱいに引かなければいけません。上記に記した7つの問題を解消するために、矢の長さいっぱい引かないといけませんし。その行為をしやすくするためにも、左手の力も抜かないといけません。

教本の文章の通りに読めば、矢の長さいっぱいに引くことだけが大切であると、よくわかります。7つの問題を全て解消するためには、矢の長さいっぱいに引かなければいけません。

 

なお、浦上範士も離れの究極系は「左手で押し切る離れ」と記されています。

浦上範士:意識的に右手を動かして弦を放したのでは、離れにいろいろの悪い変化を伴う。どこまでも右手の離れは左手によって誘い出さねばならない。それは、弓の左角を左拇指の付根(角見)で鋭く押して的に突っ込むのである。(2巻、P154)

この文章も、右手を意識的に離しているのであれば、理想の離れが出ません。だから、右手の動きを無意識的に動かし、あたかも左手が離れの機会を誘うように動作を完成させる必要があると説いています。

そのため、大きく引いて、右手にかかる「弦の復原力」を最大限に高めましょう。そうすれば、自分の意識ではなく、弦の復原力が詰まりすぎて、意とせずに離したくなる気持ちは勝手に出てきます。

ゴム弓であれば、意識せずとも会を10秒以上持てますよね。なぜなら、ゴム弓によってかかる右手の圧力は少ないからです。しかし、右手にかかる圧力が30kgになったらいかがでしょう?持ちたくでも圧力が強すぎてつぐ開放したくなります。

そのような状況は「意識的に右手を離す」という行為はできません。つまり、矢の長さいっぱいに引き、右手を意識的に動かせる環境をなくせば良いのです。いっぱい引き続けて、無意識でも離れが出てしまうくらいに、右手を引き続ければ良いです。

どうして、「右手で意識的で離してはいけない」と書いてあるのに、「右手で引くことが大切」と言えるのか、それは、浦上範士が

離れは雨露理の離れが適切と説いているからです。

浦上範士の「雨露理の離れ」は言葉が間違えている

浦上範士は「雨露理の離れ」の文章を見ると

浦上範士:露が自然に稲穂から落ちて、一滴も止められなくなる。すなわち葉の上の露は零となるが、この零となる瞬間は極めて微妙で、その瞬間が射における離れであって、露が落ちた後に、弦から弽から離れる

この文章をみると、精神論とも理想論とも言えない「微妙な感覚が離れで大切」と説いています。しかし、弓道における「雨露離」の本当の解釈は

「目一杯引いているのにも関わらず、水の柔らかい状態を持つ」

と記されています。これは、浦上範士が提唱する日置流の開祖、日置弾正先生の内弟子の内容を引用したものです。

雨露利とは、・・・雨露の落ちるその心少しも邪無し自然に位あり形もその心を堪へよとの事なり是少しも邪なく自然の心にて至って強く総体不足なる事無き。(尾州竹林弓術書五巻「灌頂の巻」より引用)

大きく矢の長さいっぱいに引けば、総体の力を活用するのに「不足」はありませんね。そして、その有様は「強く」引けていることを表します。そうして、脳のデフォルトネットワークがなくなると、余計な思考をする暇が消えるため「邪な気持ち」は減っていきます。

これらの内容は、「自然」なことです。人間は邪推な気持ちが出てしまう行為と消し去る行為があるのなら、後者の動作を行うのが自然です。邪(よこしま)な気持ちが出てしまう余地のある行為、引き方をしないのが自然です。

つまり、矢の長さいっぱい引いた状態でも、腕や胸の筋肉が強く力まず、水のように柔らかい状態を構築するように解説しています。これは、教本の会の内容で、「いっぱい引けば、身体にかかる負担は軽減される」を理解すれば、理解できます。

したがって、浦上範士の解説されている雨露理の離れの本来の意味から考えると、矢の長さいっぱいに引くことが大切と説いていることがわかります。

さらに、浦上範士は適切な会を「カケほどき」と説明もしています。

浦上範士:ギリ粉を用いるとギリギリとかキチキチという音がする。これを激しくさせて「かけほどき」ということをなし、離れの時機を作る人がある。

ギリギリという音が力が軽く短い音で連続的にするが、力強く断続的にする音はギリギリではなく、「キチキチ」は伸びあっている時の音である。「キチキチ」の音が中途で断絶した時は、緩んだかさもなくば伸びていく動作が止まった証拠で、(2巻、P156)

会に入った時に右手の摩擦音である「きちきち」という音が断続的になってくると、両腕を伸ばし続けた結果、右手がしまっている証拠になっていると言っています。そして、

浦上範士:最後の「キチー」の直前に離れるのが一番充実し、両手も平均し、気合も緊張している(2巻、P156)

と話しています。では、最後までキチキチ音を出すためには、矢の長さいっぱいに引かないといけません。

最初は力が入ってしまって、キチキチ音が出るのも断続的ではないかもしれません。しかし、数多く稽古して慣れてくると、キチキチ音が段々断続的に出せるように弓を引けるようになってきます。

そうして、無理なく両腕を伸ばせるようにするための一つの判断法として、キチキチ音が断続的になるように進んでいっているかを解説しています。

このように解説されている以上、「矢の長さいっぱいに引かない」という選択肢はございません。そのようにすると、文章にある最後の「きちきち」の最後の部分がわからないからです。

途中で矢束いっぱい引き込むのをやめてしまうと、右手で握る力が出てしまい、本当なら、キチキチ音が出せるのにもかかわらず、鳴らなくなってしまいます。

だからこそ、矢の長さいっぱいに引き、キチキチ音を最後まで出させて、一番両腕が伸びている状態で離さなければ、適切な会(日置流では、「穀」と表現されています)ができているかわかりません。

では、浦上範士の文章を読んで違和感を思った人はいるかもしれません。特に、「右手を意識的に離している」という言葉あたりが、やっぱり大きく引いてはいけない文章に思いたくなるでしょう

なぜ、浦上範士の文章の書き方が「右手を意識的に使うことがよくない」ように見せているのか、理由は、浦上範士は矢の長さいっぱいに引かないからです。

浦上先生の教える日置流では、近的における的中を重視しているのは文献からみて間違いないです。印西派の稲垣先生も口割を高くして、矢の長さいっぱいに引きません。

私自身これまで、印西派の方に3名以上あっています。それらの人は皆矢束いっぱいにとらず、最後の離れを出して的中を出しています。

だから、浦上範士の文章には右手首をひねることをせつめいしています。左右の手を内側にそれぞれまげて、雑巾絞りのようにすれば、両腕の伸ばせる長さが決まります。

このため、浦上範士は、「両腕を縮んでいる」と表現せずに、「一定の矢束を取っている」と解釈しています。そのため、目的が異なります。

では、このような解釈の相違が起こってしまった場合、どのように対処すれば良いでしょうか?

ご自身の置かれている環境でこの文章を適切に扱うのをお勧めします。

弓道連盟で右手首を捻り、口わりより上につけて、審査に合格するのであれば、それで良いでしょう。しかし、場合によっては、「引きたらず」と指摘されて直されるかもしれません。

しかし、日置印西派でこの引き方を行えば問題ありません。

実際、私のところにところに来た印西派の方は皆、それ以外の引き方を教えてもそれを否定することなく受け入れてくれました。だけでなく、その矢の長さいっぱいに引かない引き方にも存在する理論理屈を教えてくれました。

例えば、この引き方をやれば、高い確率で早気になります。しかし、私は、それに対する捉え方で納得のいく理由を印西派の方から耳にしております。

その考え方に自信を持っているからです。たとえ、的中することに比重を置いても、違う内容や反論にも適切な理由をおけます。

しかし、そこに具体的な理由もなく、ただ、「教本の先生がそう言っているからこうする」とか、適当な理由でやり方を強制してはいけません。

どのような引き方にも、教える際には責任と根拠が伴います。それが第三者から見ても問題のないものであれば、それは認めるべきものです。

本来の目的を隠して、右手を捻りなさいと解説しておきながら、引きたらずになって早気になってしまったら、それは「修行の一貫だから」と誤魔化すのは指導者と言えません。

くだらない精神用語で隠すのではなく、あらゆる先生の言葉を違う角度で照らし合わせても整合性が取れる理論、証拠を提示し、責任が取れるようにならなければいけません。

そのいい例を最後に紹介します。

鈴木範士の離れの説明は誤解がある

ただ、鈴木先生は離れの文章でよくわからない内容がありますので、注意です。無念無想の離れは、一流の弓道家しかできないと解説しています。あるいは無念夢想の離れを目指す理由を

鈴木伊範士:中て気と射て気と言う邪念が生まれ、それに囚われて失敗するから、その邪念を消滅させようとする先哲者の情けある射法

と記していますが、そうではありません。

よく使われる仏教の「無」とは、思考や状態に滞りのない状態を指します。つまり、ここで言われる夢想とは、「いっぱい引き続ける想いに途切れない状態」の夢想を指します。

つまり、無念夢想の離れとは、仏教の観点では一生懸命弾くことで誰でも体現できることです。つまり、鈴木先生の解釈は間違っています。このような説明をすると、初心者が誤解をして、自分は最上級の離れができていないと勘違いをします。

良い結果を出ても驕ることなく、謙虚にいるのはいいことです。しかし、鈴木伊範士のように、「離れには凡人には到底体現できない離れがある」と嘘をついてしまうと、受け手は一生弓道に対して、自信を持って考えを述べることができません。

だから、弓道関係者は低段者は口出しできず、高段者が発言する権利があると言う息苦しい状態になってしまっています。弓道の射法は仏教を勉強した方が考案されたものです。勝手な解釈はやめるようにしましょう。

このようなよくわからない話が出てきてしまうのは、教本の内容を最後まで放置し続けて、大多数の人に納得を得られない理論という名の「感想」を述べてきたからではないでしょうか?

最後になりますので、大事なことを言います。僧侶の仕事も経験したことのないのに精神的な用語を使って人に意見するのは、頭の悪い人間がやることです。

もし、精神的な用語を使って、高尚なことを公共施設を用いてやりたいのであれば、論証責任と証拠をきちんと提示しましょう。

それができないのであれば、私の調べた文章と古文の内容を引用して構いません。いますぐ弓道連盟の先生に頼るのをやめて、自分の道を歩んでください。

新しい弓道教本の読み方を手に入れて、一人でも多くの弓道家がよくわからない精神論と間違った身体の使い方を強要されて、弓を全く引けなくなってしまう前に。

 

なぜ、この異様に読み間違えるのか。浦上範士は、矢の長さいっぱいにひかず、近的で高い的中を出すことを第一にしています。ですので、解釈が変わります。

 

次に軌道がゆったりと行っているか

最後に離れの内容を解説していきます。

離れの内容でよく語られるのが、「スムーズ」に離すことが大切である。ことには変わりありません。しかし、その内容を理解するだけでは、

自然の離れ。

と言う内容が全くわからなくなります。

そこで、この離れの内容について、詳しく解説していきます。

この離れの内容は、

■大きく引いて、大きく離す、それを繰り返す

と言うことを行います。そうすると、

・スムーズに離しやすくなる

ことがわかります。

右手を、水平方向に動かし続けると、右手は次第に外方向に回転します。

すると、弦が親指の溝から外れます。つまり、右手を横に動かし続ければ、弦は親指から外れやすくなるため、大きく弓を引引いた方が良いです。

しかし、この文章を読むと、多くの人は、「別に小さく引いて、拳を外側に回せば、いいんじゃないの?」「離す瞬間に暴発させるみたいに右手首の力を抜いて離すのもいいのでは」と思います。

実際、弓道連盟で「自然の離れ」と言われる者は、後者の「右手首の力を抜く離れ」を説明する人が多いです。なので、年配者の離れを見ると、離れで右腕が開くのが遅くなることが多いです。

年齢が重なっているため、そのようにしかならないと言われるかもしれません。しかし、教本に則って自然な離れを出したい場合、大きく引いて、離れ動作をスムーズにする。それを繰り返すことをしていく必要があります。

このように言える具体的根拠を述べます。そこで自然な離れの「自然な」にかかる言葉を本に則って具体的に説明します。

大事な離れは

■自然に心が優しくなる離れ

が大切と説いています。

離れで心が優しくなる?一体何を言っているんだと思います?もう少し詳しく説明します。

正しく離れを出すと、脳内で幸福感を出させる「セロトニンホルモン」が発生します。適切に離れ動作を行うと、幸せを感じとるセロトニンが多く発生し、心の充足感が強くなり、恐れや迷いの少ない心が養えます。

つまり、大きく腕を開く離れによって、

体内のセロトニンを大量に放出し、迷いや恐れが軽減され、むしろ気持ちが優しくなる離れになると解いています。

なぜ、離れの目的が、的中ではなく、不安感を減らすことなのか?それには根拠があります。

人の身体は、無意識の間に考え事をしてしまう生き物です。大体、考え事を2秒以内に一回行うと言われています。これは、脳のデフォルトネットワークと呼ばれ、無意識の間に人はいろいろなことを考えています。

外界からの影響により、無意識に感情が発生します。特に、離れ動作とは、的中、変な迷い、自分の身体の状態など、様々なことが気になってしまい、脳のエネルギーを消費してしまいます。

この脳のデフォルトネットワークを減らすことが、特定の動作に集中的に取り組むことです。

例えば、座禅や気功などは、行うことで、頭や心がスッキリする感情が得られます。理由は、これらを行うと、脳のデフォルトネットワークが抑えられるからです。

そして、これらの運動を行っていると、気持ちが落ち着いてくる時に発生するセロトニンという物質が出てきます。

このセロトニンが体内で生産されると

多幸感、充足感、苦難に対するメンタルの安定度の向上

が得られることがわかっています。

そして、研究によると、弓道の離れ動作でも、脳波が出ることがわかっています。しかも、胸をできるだけ開いて、背筋を使ってあげると、セロトニンがより多く生産されることがわかっています。

このように、弓道の離れ動作によって、多くのセロトニンを生産することができます。つまり、的中することより、自分の身体を鍛える方向に注力を捧げることで、理想の離れが決定します。

弓道の開祖である「日置弾正政次」は、弓によって、外界に動じない、恐れのない状態を構築することが目的と解いています。今、お話した離れによって、「恐れのない心」が身につく証拠は弾正政次の解説される考え方と同様です。

注意:この方は弓術の開祖と説明されることがありますが、中身を見ると、仏教思想に基づく弓道を表現されていますので、日置流の開祖=日置流だから弓術=弓道と違うという間違った捉え方をしないでください。

■無意識の離れ=スムーズな離し方ではない理由

しかし、こんにちの弓道では、「無意識の離れ」と解説されることがあり、

余計なひっかりなく、自分の意識をなく離すのが適切の離れ

と解く人が結構な数をいます。

だから、弓道連盟の中には、控えが柔らかい弽を用いて、会の手前で「いつ、暴発しそうな感じで離れてもおかしくない」感じで離そうとする先生がいます。

そのような先生は、高い確率で離れたあと、右腕が「ファーん」と、緩んだかのように、緩い動きになります。それを、「余韻があってよい動き」などと評価します。

そのように、個人的によいと思う離れはよいですが、人にそれをおすすめしたり、「それが正しい」と強制するのはダメです。明らかに内容と文章を誤解されているからです。

では、なぜ無意識に離すことがいけないか説明できますか?

そう考えてしまうと、どのような離れも「無意識」にできてしまうからです。

自分の意識と裏腹に「無意識に出す」かで理想の離れが決まるのなら、どのような動きの離れも同じように繰り返せば、無意識にできるようになります。

緩み離れになっている人は、緩んでいるように見える動きの離れを無意識にできています。送り離れになっている人は、送って見える動きの離れを自分の意志と裏腹に行っています。このような人たちもそれぞれの離れを

次に軌道が「ように

オリジナルテキストをダウンロード

 

 

 

スタートアップ弓道コミュニティのご案内