流派弓道にも紹介した日置流射法の「日置流」は弓道の歴史上、二流存在しています。
一つは日置弾正正次が祖である大和の日置、もう一つは日置弥左衛門範次が祖である伊賀の国(三重県)の日置です。そして、この伊賀の日置の祖である流派が竹林流です。
日置弥左衛門範次が同じ伊賀の国の安松左近水吉次→弓削甚左衛門繁次に受け継がれ、弓削甚左衛門繁次が伝授の弓書を三島大明神に納めました。
これを滋賀県近江の住人、北村竹林坊如成が、全部受け下げ、その書物を編集し、北村の性を石堂と改めました。そして、次男である弥蔵為貞に授けました。
為貞はのちに石堂竹林と呼び、名を貞次と改め、実践的弓術の妙技を工夫勘案して、父の如成が編集した「日置一篇の射」を加筆編してまとめました。
当流五巻の書(外伝として、初勘の巻、歌知射の巻、中央の巻、父母の巻の四巻、および内伝として藻頂の巻を加えた)を合わせて、ここに尾州竹林弓術が完成されました。
継承されてきた人物で有名なのは星野勘左衛門茂則です。この人物は幼少のころからすでに精妙を得て、成長するにおよんでことごとくその奥底をきわめていきました。
寛永二年五月二十八日(一六六二年)京都の三十三間堂において総矢一万百二十五本を射て六千六百六十六本を射通し、天下一になりました。
なお、尾州竹林の継承された人物で最近なのは教本三巻で射技を説明している富田常正範士です。富田範士の射技の説明を見ると、骨、関節、体の部位の説明が多く、尾州竹林の説明の系統と似ていることがわかります。
尾州竹林の射法の特徴
尾州竹林の射法の目標を以下にまとめると
「的中すること、矢を早く飛ばすこと、貫通力が強いこと、遠くへとばすことのよっつを目的にしています。そして、そのための骨法の正道を忠実に実行しないといけない」
と言う目標です。すなわち、小笠原流のような、精神的なものではなく、また日置流のような戦時中の実践的な緊迫感あふれる射法の教えでもない、人の体の仕組みをとらえた実利的な射となっています。
そのため、尾州竹林の射法の説明は説明文にやたらと「肘関節、肩関節・・・」など「骨」「関節」という言葉が入っています。これにはちゃんとした意味があります。
人間の骨は人体に何百とあり、それなのに、射形ややり方をみな統一して話すとその骨格によって合う人、合わない人が出てきます。
尾州竹林は人による正しい引き方を形ではなく中の「骨」に求めました。そのため、骨、関節から弓の引く方向や押し方を解説しています。これを「骨法」と言います。
この骨法の内容を理解すると、誰でも強い弓、弱い弓を自在に、矢勢強く放つことができると考えられています。
・骨法の簡単な例
骨法の簡単な例として、手の内の押し方で中押しという言葉があります。
これは尾州竹林の射法でも説明がある「中四角中央の手の内」のことです。弓を手首、肘、関節、どこにも凝りのなく、負担のないよう、かつ弓の反動力、弓返りの反動の効いた
中押しの効いた手の内は弓の内竹が人差し指と親指の間にしっかり入っています。そして、掌の中央部にある少しくぼんだ部分(掌根)から真っ直ぐ押された状態になります。
この中押しの状態は手首、肘、肩関節の線が一直線にキレイに不自然なくそろっているので、ただ腕だけ押すのとでは格段に違う、負担なく大きな力で押すことができます。
もしも、これが、押す方向が人差し指と親指の間ではなく、親指側や人指し指側に片寄っていたら、弓の負担は偏って、骨格に不自然な部分にかかり、射形の崩れになります。
これは、単純に一部分が不正になっているから、その一部分が悪いという話になりません。人差し指と親指の真ん中で押せていないと、その弓不自然な荷重なかかり方は肘、肩、ひいては上半身まで影響がでます。
例えば、左拳の荷重が不自然にかかり、左拳を握りしめてしまうとその力みは肘関節に伝わります。
適切な骨方向、位置で弓の荷重をかけていないと、一部分の崩れではなく、射形全体に影響が及びます。
そのため、その人に合った、適切な関節な位置、押す方向によって正しい射形、正しい形の弓の引き方を身に着ける方法が骨法です。