次に、会の内容を説明していきます。
会の内容に入る前にこれまでの内容を振り返りましょう。まず、引き分けで
・いないいないバァをして両腕を外側に開く
ように意識しましたね。これを行うだけで「安定した会」はもう作れちゃうんです。
その具体的な理由を解説します。
■両腕を外に開くと、両肘と両肩の線が一直線に揃う
両肘を外に開いたら、両肘と両肩の線がほぼ直線に揃いますね。
こうなったら、あとは肘を意識しながら、横に引くだけです。なぜなら、両肘と両肩が脇正面からみて一直線に揃った状態は、一番肘を動かしやすく、力を込めやすいからです。
例えば、「肘打ち」という技がありますよね。肘打ちは両肩の線上と同じ線上に肘をおくと、威力が格段に上がります。
両肩より前に右肘を置いてください。その状態で肘を動かしても、力強く肘を押し出せないですよね。しかし、右肘を肩と同じ線上に置いてください。すると、右肘を少ない力で、早く強く動かせます。
これと同じ原理で弓道の引き分けで行います。引き分けの時に、いないいないバァの動きで両肘を開きます。右肘を引き分けの段階で両肩と同じ線上に置いてください。
すると、右肘をそこから横に動かしやすくなります。
そうすると、右肘を肩より後方に回り込みやすくなります。こうして、充実した会の形が構築できます。
■会の抽象的な言葉は、「右肘を深く」」入れれば、全てわかる
会は抽象的で、なかなか言葉に説明するのは難しい。このように先生は言われます。
そんなことはありません。会は一番簡単です。もし、右肘を肩より後方に入れれば、会のあらゆる抽象的な言葉は説明がつきます。
充実した会、深い会と浅い会、骨法、気力の充実、息あいと伸びあいの一致、こんなよくわからない言葉で溢れていますよね。
これ、右肘を深く後方に入れれば、よくわかります。
なので、やることを明確にします。とにかく矢の長さいっぱいに引いてください。右肘を肩より後方に引き込んでください。
大きな引き分けを行うと、適切な会の状態を作り上げることができます。では、この内容を徹底的に解説します。
■適切な会の状態は、「右腕の負担」でわかる
適切な会の状態は、
身体にかかる負荷は大きいが、右腕にかかっている負担が小さい
状態です。
もし、いっぱい引いていて右腕にかかる負担が少なければ?、スムーズに矢を放つことができて、的中を得られます。身体にかかる負担が大きいとは、弓の反発力が強く身体にかかっていることを指します。
この状態を作れば、矢飛びが早くなり、スムーズに離すことができるため、確実な的中を得られる確率が上がります。
そんな状態を作ることができるのか?矢の長さいっぱい引けば実現可能です。
例えば、イラストにすると、
小さい引き分けは、右腕に負荷が集中する
ことがよくわかります。
なぜなら、引き分けが小さいと、身体に対して、弓が前方に出てしまうからです。左右に開いた両腕が常に身体の前に戻るように力がかかってしまいます。そうすると、腕に力を込め、関節を固定しないといけなくなるため、両腕に力みが集中します。
つまり、身体にかかる弓の反発力は小さいのに、その力が右腕に集中してしまっている状態になってしまいます。
一方、引き分けが大きいと、
大きく引き分けると、右腕ではなく、肩、腰、首、脇腹などに負荷が分散される
ことがわかります。
なぜなら、矢の長さいっぱい引くと、右肘は肩より後方に入ります。身体に対して、弓が並行に揃うようになります。この位置になると、弓の反発力は腕だけにかかることはなく、肩、脇腹、などにも力がかかります。
つまり、身体にかかる反発力は大きくなりますが、それに対抗するための筋肉は多種類使えるようになるということです。
だから、結果的に腕にかかる負荷が減るということです。
さらに、この「大きい引き分け、腕の負荷が少ない会」によって、様々な会の抽象的な用語の説明がつきます。
それは、大きい引き分けを行うことで、身体にかかる弓の反発力が徐々に上がっていき、会で最高潮の状態を作ることができるということです。
■「骨で押す」とは、筋肉に負担がなく押すということ
教本には、「骨で押す」と記されていますが、どのように押すのか意味がわからないと思います。
この言葉の意味は、筋力を最小限に抑えて押すことができれば、骨で押していると言えます。
例えば、腕を伸ばす筋力が10発揮できるとして、8の弓の反発力がかかったとします。この場合、腕を伸ばす筋力を8使えば、弓の反発力に対抗できます。しかし、会では、常に弓の反発力がかかるため、一度使った筋力を持続的に保たないといけません。
残念ながら、筋力が持続的に発揮できる時間は20−30秒程度、1射2射くらいであれば、筋力でも問題ないかもしれませんが、これでは自分の体力が持ちません。
そこで、矢の長さいっぱいに引き、腕以外の箇所も使って、腕を伸ばす力を2、3くらいで8の弓の反発力に対抗できたらどうでしょう?上記のように、様々な筋肉を広範囲に使えば、このような環境を作ることはできると想像できます。
その場合、なぜ腕は弓を押せているのでしょう?それは、自分の筋肉の働かせ方を変えて、骨などの身体の部位も活用して、「筋力をセーブして、楽に押せている」とも解釈ができます。
このように、骨で押すとは、考えてできる者ではありません。矢の長さいっぱい引き、無駄な筋力を最小限に抑えた結果、あたかも筋肉以外の部位を使って押している感覚をえることと言えます。
気力は、矢の長さいっぱい引くことで充実する
次に、会の説明では、「気力の充実」という言葉で表現されますが、これは弓の反発力が関係しています。
矢の長さいっぱい引くと、弓の反発力が身体に徐々に大きくかかっていきます。すると、背中の筋肉に負荷が強くかかり、背中を介して、脳に多くの血液が流れます。この状態が「意欲的に物事に取り組んでいる」状態と似た状態を作れます。
気力の充実とは、感情的に「心が心地よく生き生きしている状態」になっていると強く推測されます。少なくとも、どんよりした心になっていることはないです。
このような心理状態は、「小さい引き分け」で作ることはできません。大きく引き分けをし、背筋に大きく負荷をかけて、脳に多く血液を送ることで、「充実した気力」状態が作れます。
だから、気力の充実のためにも、矢の長さいっぱいに引くことに徹しましょう。
さらに、矢の長さ引き続けることで、
息合と伸び合いの働きを一致する、
ことがわかります。
息合いとは「呼吸運動」が関係します。伸び合いとは、気持ちの面で言うと「ある一つの動作を維持して行う」と言えます。そして、筋肉は「縮めるのではなく、伸ばす」ことがわかります。
これは、矢の長さいっぱい引くことで、呼吸、気持ち、筋肉の三要素が同じように働くことがわかります。「ゆったり。長く」その活動が続きます。
矢の長さいっぱい引くと、弓の反発力は腕以外に脇腹や肩周り、首周りなどにもかかります。ここで、脇腹にある「前鋸筋(ぜんきょきん)」が縮むと、肩甲骨が外側に開きます。
これによって、肺まわりにスペースが生まれ、酸素が体内に取り込みやすくなります。この時は、呼吸運動は、「楽に、持続的に」酸素を取り込むことができます。
さらに、脇腹の筋肉が縮むと、肩の筋肉は下がって伸びます。加えて、腕の筋肉を意識せずとも左右の方向に伸びます。つまり、必要以上に筋肉を使わずとも、腕・肩関節が左右に伸びるため、筋肉を伸ばす運動を「楽に、持続的に」行えるとわかります。
つまり、矢の長さいっぱい引き、腕以外に脇腹にも反発力がかかれば、呼吸と筋肉を伸ばす運動が「楽に、持続的に」行えるようになります。この働きを一致させることを、息合いと伸び合いの一致とも表現されます。
これを今の弓道連盟では、自分にとって呼吸をするポイント、射型が整う「タイミングを合わせる」ことを息合い、伸び合いの一致と説明する場合があります。そうではなく、働きが一致することです。
そのように読むと、弓道教本が全くよめなくなってしまいますので気をつけてください。
■姿勢についての様々な精神的用語の説明もつく
さらに、弓道教本の会の説明には、
隙のない姿勢、総体が締まる・収まる姿勢、五部の詰め、八部の詰め
など、精神的用語がありますが、矢の長さいっぱいに引けば、この言葉の意味がよくわかるようになります。
矢の長さいっぱいに引いて、身体の各部に弓の反発力をかけてみましょう。
腕や手先に力だけに力がかかってしまえば、腕や肩が上がった窮屈な姿勢になります。しかし、大きく引き続け、右肘が後方に入り、脇腹や腰回りにも負荷がかかります。
すると、肩や腕だけでなく、体幹部、下半身の筋肉にも刺激が入っていることがわかります。つまり、肩や腕だけ出なく、腰や脚と言った箇所、計八箇所の部位に弓の力を詰めた状態になります。これが「八部(左手、左肩、胸、右肩、右肘、腰、左脚、右脚)の詰め」とも言えます。
この状態になれば、「五部の詰め(左手、左肩、胸、右肩、右肘)」ができるとも言えます。矢の長さいっぱいに引き、右肘を肩より後方に入れれば、腕(左手、右肘)だけでなく、体幹部に近い部位の筋肉にも弓の圧力をかけることができます。
さらに、筋肉を伸ばす力と弓の反発力が「肩」に詰まるとします。これは、肩関節に「伸ばす力」と「圧縮する力」が集中し、二つの力によって肩関節にかかる無駄な力がこもらず、力がかかります。これによって、肩関節は「締まり」、動きが「収まり」ますね。
よく、弓道では、関節の位置をどこかに固定することを「収まる」といいます。そう読むと会の文章が全くよめません。
また、筋肉に力を入れて、なんとなく身体の一部を緊張させることを「締める」ともいいます。ではなく、弓を押す力と押される力をそこに集めて、関節の位置を収めることを「締める」と表現しています。
決して、身体の一部を固めたり、筋肉を緊張させることではありません。矢の長さいっぱい引くと、二つの力によって、皮膚が「締まり」、動きが「収まる」のです。
それが、肩が締まる、右肘が収まると言うことです。それが矢の長さいっぱいに引いて、身体全体の皮膚が閉まれば、「総体が締まる」姿勢になります。
さらに、矢の長さいっぱいに引くことで、全体の筋肉に刺激が入ります。
この状態、いつも以上に、周りの雰囲気や気配に敏感になっている「隙のない状態」に似ていると言えませんか?
隙のない状態とは、身体全体に意識や気持ちが行き渡っている状態です。つまり、身体全体の筋肉に刺激が入って、あらゆる方向に意識が向いています。
と言うことは、弓道で「矢の長さいっぱいに引いて、身体全体の筋肉に刺激が入っている」状態とは、隙のない状態とも言えませんか?このように、教本における、会とは、様々な言葉で「矢の長さいっぱいに引くこと」を繰り返し表現しています。
ここまでの内容を聞いて、矢の長さいっぱいに引こうとしたら、
「それは引きすぎ」
と口だけで指摘をする人間はどれだけ教本を読んでいないのかわかります。
もう一度いいます。弓道教本は素晴らしい本です。しかし、それを扱う先生は間違いなくくずです。これだけ複数の「矢の長さ一杯引く」ことの重要性を解いて置きながら、それを全く理解せず、むしろ反対のことを行っているのは、
「段と言う見栄えの良いものには努力を惜しまない癖に、文章解読と言う難しいことには取り組まない」
と自ら「根性ができていない」と言っているとしか思えません。
他の弓道高段者も皆同じことを揃えて言う。
では、私のお話している内容は妄想でしょうか?ほぼ全ての弓道教本の高段者は「矢の長さいっぱいに引くべし」と記しています。
矢の長さいっぱい引くことで、「伸び合い」が実現する。
まず、矢の長さいっぱい引くと、身体全体に負荷がかかります。腕の筋肉の負担が少なくなって、両腕を左右の方向に伸ばしていけます。このように、「身体全体にかかっている負担は大きいが、腕だけが左右に伸ばし続けている」状態を作ることが伸び合いです。
千葉範士:伸び合いは、弓手に定め妻手に締め。(二巻、P130)
妻手が締まるくらいに、矢の長さ一杯に引くべきです。そのために、右手(妻手)を積極的に大きく動かしていく必要があります。
千葉範士:これは、至誠を尽くした不断の鍛錬によって初めて生まれる(P130)
持満とは、矢束一杯ひきつめて、放れ際まで息にさはらじ
「不断の鍛錬」と言う表現を引きたらずの緩み離れで解説しているとは考えにくいです。例え身体に力みがかかってもいいから、とにかく矢の長さいっぱいに引くことを続けていく様子を「不断の鍛錬」と言われればしっくりきます。
この文章の表現に、「軽い弓で形だけ整えて、筋肉を伸ばしているイメージだけ持っていれば、伸びあっている」と言う悠長な解釈があるわけではありません。
矢の長さいっぱいに引き、身体に負荷をかけて、弓によって心を鍛えることを「不断の鍛錬」と表現し、意識的に矢の長さいっぱい引くことを「持満」と解説しています。
他の先生では、「引き切った状態が会」と具体的に説明している先生もいます。
高塚範士:会は引き分けの延長で、整った身心各部の機能が合致し伸びきった頂点が会であり、離れである。(P150)
では、矢の長さいっぱい引くこといいますが、具体的な方法は神永範士が解説しています。
■胸を左右に開くことで、「矢の長さいっぱい」引きやすくなる
まず、いないいないバァとして、左右の肘を真横に広げます。すると、胸は左右に広がりますね。この引き方は神永範士も同様の内容を解説されています。
神永範士:体が弓に寄せられながら前面が開いて来るので、これによって後ろ面の張りに対して両肩がはまるのである(P132)。
高木範士は別表現として、口から肩の線にかけての方向に力を働かせろと表現しています。
高木範士:「真の矢束」とは、離れの時に右拳が会の時の位置より前方を通ることなく、その点より右で幾分後方まで開くような所まで引いた矢束を「真の矢束」と言う。
会の時の弓矢と力の関係を考えると上図のようになる。両肩の骨(S)を支点とし、このSを含む水平面と頬付けのところの矢(P)よりの垂線との交点をPとし、
Pを含む水平面とSよりこの平面の垂線との交点をS’とすると、会の時の力はPS’とPP’の二つの力の合力の方向、すなわち、PSの方向に働いて釣り合っていることになる。
つまり、身体に向かっていくように力がかからないといけません。このためには、いないいないバァをして、左右の肘を左右に広げていく必要があります。
さらに、他の先生も言葉を変えて、弓を引く前に、胸を開いておいてから弓を開く重要性を解いています。
祝部範士:この時の右手の角度は60度、すなわち胸の一番開く形勢でなければならない。
安沢範士:背向に無限の働きをするからである、決して矢なりの方向に動くのではない。
4人の先生が言葉を変えて、同じ動作を行う重要性を解いています。つまり、矢の長さ一杯引くために「胸を左右に開く」ことは大切です
そこで、左胸に注目しましょう。ひらり胸を開くためには、引き分けに入る時に、左手から
■左肘を真横に開いて横に伸ばせば、左拳は自然と締まる
そして、いないいないバァで左手の中に弓が入ると、左小指は引かれますよね。
弓の圧力によって引っ張られ、左拳が締まります。
神永範士:手の内が吸い付いてしまって来るほど
宇野範士:「詰合い」で手の内が握り革に吸い付くように全体で締めるので、部分的に色々工作したりしない(P145)。
浦上範士:矢をまっすぐ飛ばすには、小指をしっかり締めて弓の本弭の反発力を手前に引くようにしなければならない(P146)
松井範士:拇指根を中心に握り、全体が内側に締まる心持ちでなければならぬ。(三巻、P167)
・・・小指と拳の外側の筋肉が内側に向かって一斉に締まることになる。
そうすると、親指の付け根に弓の力が集中しま。小指が締まることで、親指の付け根により深く弓があたり、弓の力を親指付け根で受けるような形になります。
この時、親指は「少し浮くような状態」になる人もいます。
松井範士:拇指の爪は、鵜の首の如く反り(三巻、P168)
この時、親指は的方向に突っ込んではいけません。そうすると、親指に弓の反発力がかかりすぎてしまい、小指が締まらなくなるからです。
と、浦上範士もお話しています。
親指は的方向に向かって押し込むのではありません。親指が中指をするように押すため、親指自体は的方向ではなく、人差し指と親指が広がるように「斜め前」に押すようにします。
浦上範士:親指を伸ばし、中指のところを摺るように押すと、骨にこたえて押した形となる。(P146)
実際に浦上範士は、会の説明で、「左手は弓を伏せるように押す」と記しています。つまり、親指を的方向に突っ込むのではなく、少し親指が斜め前に向くように押すようにします。
浦上範士:左手は弓を外に捻りつつやや伏せて押し(P136)
ここで、左手で押し込めば、右肘が後方に動かせなくなります。右手に力をいれざるをえません。なので、右肘で右肩より後方に引きつけることに注力を捧げます。
右肘を後方までひきつけてしまえば、右手にも無駄な力みが入らなくなります。肘が後ろにくれば、手首が弦によって自然と伸ばされます。
矢の長さいっぱい引いた後は、右拳に余計な力を加えずとも、右拳がしっかりしまっているのを理しましょう。
神永範士:両拳は力が凝らず、軽やかに右肘右肩の働きで弦枕に感じてくれば。少しも間隙がなく、右肩が弽下の脈所を押しているような感じになり
これを、宇野範士は、右手親指が伸びて、薬指を突っ張るように働かせるとも解いています。
宇野範士:この時、右小指に力が入り、右母指が薬指を突っ張るようになり、指先の末端がよく働くのである。(P146)
右肘右肩の働き=矢の長さいっぱい引けば、働きます。右肩で弽の脈所を押すとは、胸を左右に開き、右肩が外側に開けば、結果的に右拳も外側に開き、あたかも「右肩によって右拳を動かしている」ように感じます。
■矢の長さいっぱい引くことが、「心と形の働きが一致」の状態を作る
では、このように、左右の拳を力ませず、両腕を伸ばし続ければどうでしょうか?
心は「どこまでも弓を伸ばし続ける」気持ちが続きます。
形も「どこまでも両腕が伸び続け、力がこもらない」状態が作れます。
弓も「どこまでも外側に開き続ける」状態になる
つまり、心、形、弓の働きが「同じように働き」ます。これを「形と心が一致する」とも表現しています。
神永範士:形と精神とがピッタリと会合する
高木範士:決して静止しているのではなく、身・弓・意(三業三心)が全き調和の状態になって
神永範士:形が整い、波が静まって、弓の力により気合が射形に会合する。(P138)
神永範士:精神気力が射形に会すれば、その瞬間に離れるのであって
さらに、高木範士は、その「意」が形を止めるのではなく、常に弓を引き続ける気持ちを途切らせないと解説しています。
高木範士:みた所、何も苦もなく、伸び伸びと、しっかりと気高く収まることを念願とすべき
神永範士:会は・・・緊張はしているが、力みを出してはいけない。寧ろ無表情で、心がジワジワとしまっていき、心技一本の感じである。(P138)
高塚範士:精神・体力・弓力の三力が静かな緊張の内に完全に調和し、
そして、矢の長さいっぱい引きますと、弓の反発力は身体の各部に分散されます。一部にかかる筋力が抑えられますよね。それをさらに高木範士は解説されています。
高木範士:筋力を主とせず、専ら骨骼の力、すなわち骨力を旨とし、
そうして、常に筋肉が伸び続ける形と、引き続けようと言う「心」の状態、働きを統一させましょうと言う意味が、「心と精神」が一致した状態になります。
このように、心=形=伸び続けると言う考え方ができたなら。
呼吸運動=筋肉の働き=伸び続ける
と言う言葉も意味も理解できます。
■いっぱい引くと呼吸も「楽に、ゆったり」行えるようになる
矢の長さいっぱいに引くと、胸が開いてきます。これによって、肺に酸素を取り込みやすくなって、楽に呼吸を行えるようになります。
と同時に両腕は楽に外に伸ばされるため、楽に徐々に両腕を伸ばしていけます。この働きが一致することを、息合いと伸び合いの一致といいます。
宇野範士:「息合い」と「詰め合い」の一致によって定まるもので。
冨田範士:会の充実は、伸び合いと気力の充実で、また息相の充実である。(三巻、P166)
ここまで読むと、呼吸=筋肉の詰め=ゆったり、楽にどの動作が続くとわかりますね。
なぜなら、矢の長さいっぱい引くことを続ければ、心も身体も伸び続けるのだから、
心=体の筋肉=伸び続ける。(心と形の一致)
この時、呼吸=楽に長く行える(呼吸と形の一致)
と理解できます。
では次に、縦方向の筋肉の伸びと、横方向の筋肉の伸びが一致し、同時進行で行われる意味を読み解いていきましょう。これを弓道では
■矢の長さいっぱいに引くと、脇が詰まって、背中が伸びる
と表現されます。
矢の長さいっぱいに引くことで、「縦横十文字」が構築されます。
なぜなら、矢の長さいっぱい引くことで、
「脇の筋肉が詰まって、背中の筋肉が伸びる」ように身体が働くからです。
矢尺をしっかりとるためには、肩幅を広げる必要があります。
そのために、いないいないバァと左右の肘を外側に開き、胸を左右に広げていきます。
そうすると、脇下にある「前鋸筋」と言う筋肉が働き、肩甲骨が外側に開きます。腕が左右に楽に伸びます。
これと同時に、背中にある「菱形筋(りょうけいきん)」と呼ばれる筋肉が働きます。
これにより、背中の筋肉が上方に伸び、より姿勢がまっすぐに伸びます。
この二つの働きは、同時に起こります。
脇がつまり、背中が伸びる筋肉の関係は切ってもきれない関係。だから、弓道における詰め合い、伸び合いは同時に起こるものと考えられます。
宇野範士:左右の肩甲骨が両方から詰め合うように全力を挙げて十文字に伸び合う。(P134)
また、「詰合い」と「伸合い」とは切り離すことのできないものであるとわかる(P135)。
また、それを見た目から見ると、「胸の中心から開いている」ようにも見えます。
宇野範士:会に置いて胸の中筋を縦の中心として、上下左右に伸びあって。
そして、矢の長さ引いて、「脇」を詰めて、と「背中」を伸ばすことができれば、
■矢の長さいっぱいに引、「腹の力」も使っている
ことがわかります。
引き分け動作は、「吸う」息ではなく、「吐く」息によって行われます。
理由は、息を吐くことで、肺の中にある空気は外部に出され、胸郭がすぼみ、肩甲骨が左右に開くからです。
先ほど、矢の長さいっぱいに引くと、肩甲骨を左右に広げることが大切とときました。より、そのように肩甲骨周りを効率よく活用するために、肺の中にある息は吐き出した方が良いです。
すると、胸郭が下にしずみ、上からお腹に圧力をかけることになります。
人によっては、胸郭のふくらみがへることで、反対にお腹が膨らむ人もいま。これで、身体の重心がより下方にしずみます。
このような状態をあたかも「腹の力で引く」とも表現されます。教本参巻の安沢先生は「胸を虚にして、腹を実にする」とも表現しています。
宇野範士:呼吸一つで締まるので、矢束は伸びも縮みもせず、腹力で行うものである。
神永範士:下腹に思いを置いて、水中の息で伸びあえば(P183)
さらに、安沢先生は、腹を中心に、左右の拳と腹の三角形の無限延長が会で重要と解いています。
安沢:左・右・丹田の三点を結んだ正三角形の無限延長である。
このように動かすためには、矢の長さいっぱいに引く必要がありますね。
神永範士の文章も、水中の息にすると、何がどう伸び合うか?とわからなくなると思います。しかし、
矢の長さ一杯に引く→そのために、息を細くゆったり吐く(水中の息)→肺の空気がなくなり、すぼむことで肩甲骨が左右に広がる(伸び合う)→と同時に胸郭が下に落ちて下腹に圧力がかかる(下腹に思い)
とこれまでの内容がわかると、文章の意味が理解できます。そして、矢の長さいっぱい引き、脇を詰めて、背中を伸ばし、お腹を膨らますと、
■矢の長さいっぱい引くと、脚力も使っている
ことがわかります。
大きく引けているのは、腕を動かしているのではなく、「脚を伸ばす力」を働かせているとわかります。
矢の長さいっぱいに引き、肩甲骨を左右に広げるためには、足裏の体重を踵側に乗せて、脚の筋肉を伸ばすようにしなければいけません。
盲点ですが、肩甲骨を広げるためには、脚の筋肉も伸ばさないといけません。太腿の前側の筋肉が縮むと、骨盤が前に傾き、背筋に力が入って肩甲骨は左右に広がりません。
反対に、踵に乗せて、骨盤を上方向に起こすと、脚の筋肉が伸びます。すると、肩甲骨も左右に広がります。
踵に体重を乗せて、脚の筋肉を伸ばすと、腕から脚までの筋肉が外側に伸ばされ、より全身の筋肉を使って、弓を引けるようになります。
高木範士:力の具合を言うと、中力の時に述べた角見・左上膊後側・背中・腰・右足の裏と、右肘・右上膊後側・背中・腰・左足の裏と言う働きと、角見・左上膊後側・右肘と言う働きとが、ほとんどの平衡の状態にある。
さぁ、ここまで矢の長さいっぱいに引くと、
心と体が「伸び続ける」ように働き、一致する。→呼吸運動、筋肉の伸び方、が一致する
→脇が詰まって、背中が伸びて、お腹の筋肉が膨らむことで伸ばされる、脚の筋肉も伸ばされる
ことがわかります。これは、つまり、全ての筋肉を総動員して、弓を引いていることになります。
なお、この文章の左右の足までを含めた筋肉の働きを「八部の詰」、左手から右肘までの働きを「五部の詰」の内容と似ています。
冨田範士:骨法五部の詰よく整い、(三巻、P166)
そして、矢の長さいっぱいに引き、全身の筋肉が活用できるとわかると。
■「体に隙のない姿勢」の本当の意味
がわかります。
隙がない姿勢とは、「矢の長さいっぱいに引き、全身の筋肉に刺激の入った状態」を指します。全ての部位に刺激が行き渡ります。すると、
周囲の状況をよく観察し、四方の筋肉に刺激が渡っている「意識のない姿勢」と同じ意味になります。
鈴木伊範士:どの部分にも少しの隙も歪みのない円満状態のことで、これが身の合一なのである。(参巻、P144)
鈴木伊範士:一層筋肉の伸合いによって堅持するとともに、狙いを定めて発射の機を熟せしめることである。
あるいは、全身の筋肉に刺激が入ることで、姿勢をほじするための筋肉にも力が入ります。
このことが、あたかも動かない山のような姿勢を構築することにつながります。
そして、内面は矢の長さいっぱい引くことに集中し、没入している様子は、より深い静かな状況に入っているとも言えます。
■矢の長さいっぱい引いた方が簡単に離れが出せる
このように、矢の長さいっぱい引き、全身の筋肉を伸ばし続けることが会であると様々な先生の言葉でわかります。このように行うメリットを紹介します。
一つは、矢の長さいっぱい引くことで、「楽に離れが出せる」ことです。
もしも、引き分けが小さければ、右腕にかかる圧力が大きすぎてしまい、これにより、右腕、右拳に力が入ってしまい、より弦を掴んでしまいます。
すると、弦に引っかかった手首をはずしてから離れなければならず、無駄な動きが増えます。緩み離れや送り離れといった症状が起こってしまいます。
しかし、矢の長さいっぱいに引くと、腕にかかる負担が減るため、少ない意識で離れ動作を行えます。
祝部範士:引き取った右手は、次の離れにおいて、単に右臂を開くだけで、既に全身射が形成し、しかもそれは放しやすいはずである(三巻、P154)。
■早気にもなるし、もたれにもなる
次に、矢の長さいっぱいに引くと、早気、もたれのどちらにもなりえるということです。
早気とは、矢の長さいっぱいに引けず、両腕に力が入っている状態です。
冨田範士:浅いというのは速いことで、深いとは、遅いことである。気力が満たず骨法が整わないうちに離れるのは早気である。
引き分けが小さいため、胸の筋肉が縮んでしまい、会に入った時には、「大きく胸を開けない状態」になります。そこから、さらに開こうとすると、肩や腕に大きく力みがかかってしまい、矢を放してしまいます。
祝部範士:せっかちの早気というのは、間違いもなき性情の発露で、射學正宗の「弓を引くこと早き者必ず躁がし・・・」は、引き取りではなく浅会のことである(P155)
祝部範士:「又、初心の人此の心を早く伝え射させ候えば、必ず早気つき射癖治らず大なる仇になり申す」(P156)・・・・
一いニイ三ぃポンで中りが出れば、例外なしに必ずと言えるほど早気になり、一ィニィポンになり、一ィポンになる。ここまでは中るが、この一ゥポン頃から救われぬ早気になり、同時に的中も落ち、完全なる廃弓に到達する(P157)
だから祝部範士はこの文章の中で
祝部範士:後年の早気留めのために、幾秒か加えなければならない。(P157)
と記されており、さらに念押しで
祝部範士:後年用の無用の時間を持加えたのでは、恐らく一時は的中も減るだろうが、やむをえまい。(P157)
生涯射続けという見地からは、それが正しい道法である。
とまで、解説しています。
次にもたれです。これも結局矢の長さいっぱいに引かないので、起こりえます。
もし、あなたが軽い弓を使用し、楽に弓を引いていたとします。会に入って、そこからさらに引き続けようとしなければ、筋肉は伸びず、縮んだままです。
すると、どんどん腕の筋肉に負担がかかってしまい、右拳を握り、弦を掴んでしまいます。こうなると、気持ちよく離せません。じっと待って、「離しそう」な状態になるまで、待たないといけません。
祝部範士:どうせ、一切の射行為がのろいのだが、会に入ると、中々放さない。ただ、わけもなく十五、六秒も保っているので、その心情を尋ねたら、その秒数をかけなければ、発射心が起こらない。というのだ。
ちなみに、この文章であるように深い会は、「長く時間を持つ会」のことを説明されていますが、これは違います。
弓道初めて、1年以上の経験者であれば、8kgの弓をもてば会が長くできます。会で時間が
■矢の長さいっぱい引き続け、それを固定しない
さらに、関節の位置を固定することが「収まる」ではなく、伸ばす力と伸ばされる力が相殺されて、動きが「収まる」ことが「収まる」でしたよね。
固定してはいけません、そうすると、矢の長さ一杯ひけず、両拳が「ガクン」と落ちます。
神永範士:ガクンと落ちない心遣いが必要で両手の下筋を効かしていなければいけない(P133)
安沢範士:ただ、形の上の延長にすぎず、これすなわち技巧の射となる。
松井範士:心の伸び合いは、内に脈々として張る抂盛なる気魂と、
さらに、矢の長さいっぱい引く気持ちを留めなければ、無駄な考えが入る余地がなくて、仏教的に「無心」「空」の状態を構築できます。
宇野範士:会から離れに移ると、その間に煩悩が起こる。この空になって離れれば、矢勢は強く、何とも言えない。(P131)
ここで言う「空」とは、無心ではありません。滞りのない心の状態を雲や空気が流れる「空」に例えて表現しています。ですので、この言葉の空を「引き続ける状態を滞らない」と考えると、常に弓を引き続けることであり、弓の押される力と押す力が均衡すると、動きが「収まる」のです。
会で形を固定してはいけません。固定すると、どんどん腕の筋肉に弓の反発力が籠もっていきます。筋肉の働きが滞り、やがて自分の心の状態に悪影響を与えます。ですので、引き続け、引き続ける心に淀みの「無い」の「無心」を目指しましょう。
宇野範士:会に置いて、ただ時間的に待つことは、意味が無い。会に入って伸び合いから、空になる時機を待つので、これは力が働いて初めて空になる。(P135)
神永範士:会として望ましいのは、伸びられる会で、これは弓に勝つが、望ましくないのは縮む会(P138)
松井範士:活気のない乏しい気の抜けた自慢の射は、案山子に等しいものと言わざるをえない(三巻:P159)
祝部範士:弓が引き戻す力をもっている以上、自分には無意識の間に一、二、四、八と倍加する力が払われているに相違ないから、それを意義づける意味からも、締め伸びを加えよと言う。(三巻、P164)
矢の長さいっぱい引こうとする気持ちが短ければ、意味が無い
なお、矢の長さいっぱいに引く気持ちは、できるだけ長く、持続させなければいけません。そうしなければ、心の鍛錬にならないからです。
弓の反発力は会の時にも持続的にかかっています。しかし、自分の引き続ける気持ちが続かなければ、離れが緩み、理想の離れにつながりません。
ですので、会は「手先」だけで放つのではなく、できるだけ長く会を保ち、身体全体に負荷をかけて、身体全体で離すようにと解説しています。または、神永範士は早い会では、良い離れに結びつかないとも記しています。
神永範士:射は因縁果において一貫している・・・・・早い因縁で会に入った者は、早く離れる場合もある(P141)。
と記しています。ですので会で積極的に弓を開かないといけません、しかし、次の文章では、
神永範士:会が2、3秒で離れても、規矩の完備されたものであれば、それで良いわけであるが、(p141)。
と、この一文だけを見ると、「別に会は長くなくても良い」と思いたくなるかもしれません。が、この後の文章を見ると、
神永範士:楽に良い射を行わんとすれば、大をなさないのである。どこまでも精神的に掘り下げることが必要である(P141)。
と記されています。なので、矢の長さいっぱいに引き続けてください。そうして、引き続けて、どこまでも「引き続ける」気持ちを掘り下げてください。
そのように、引き続ける気力が養われていない状態で離してしまうのを浦上範士は「ただ矢束」」と表現して、この段階を克服するように解説しています。
浦上範士:「ただ矢束」とは、矢束が定まらず、気力が満たないで、弛んだり放されたりするのを言う(P137)。
冨田範士:ただ力の業のみでは出来ない。気力の充実が融合しなければ、持満とはならない(三巻、P160)
■軽い弓で伸ばし続けても意味がありません
なお、矢の長さ引き続けることが大切ですが、「軽い弓」ではだめです。
自分にとって、少し強いなと感じる弓を用いることで、身体全体に適度な緊張感が発生し、「筋肉が伸びている」充実感が味わえます。これを味わうことを「気力を充実させる」と言い、「骨力を養う」とも表現されます。
しかし、これを軽い弓を使ってしまうと、矢の長さ引いても、適度な緊張感がありません。すると、全身の筋肉に刺激が入る刺激が味わえません。
このことを、「伸びすぎてもだめ」とも表現されます。
松井範士:詰合いに弓手右手を伸ばしすぎると、各部の関節が伸びきって、離れに弾みがつかず、遂には離れの機会を失って。(三巻、P165)
一見、この文章をl見ると、「腕の筋肉を伸ばしすぎるな」と言っているように思いますが、ちゃんとあとの文章で
松井範士:関節が伸びきらないように幾分余力を持ち(殊更力を撓(たわ)める必要はない)心にゆとりを置いて
と記されています。ので、矢の長さいっぱい引いた時に、体が伸びきらないように、「少し強めな弓」を選択するようにしてください。
■最初は手に力が入ってもいいから、いっぱい引くように意識する
ここまで読んで、矢の長さいっぱいに引くことを意識し続ければ、自然と骨法だの、気力の充実だの、精神的な用語は稽古で体現できると言うことが理解できると思います。
しかし、最初はどのように意識していけば良いでしょうか?
結論を言うと、最初は右手に力が入ってもいいので、意識的に矢の長さいっぱいに引くようにしてください。
これを日置流の世界では「持満(じまん)」と解説しています。まずは意識的に矢の長さいっぱいに引くように意識してください。
浦上範士:初心の間は、意識的に力を入れ、自分の心で保ち満ち伸びることを努むべきで、これが「持満」である。
冨田範士:持満とは、弾き満ちて骨を養うこと
そうやって、「矢の長さいっぱいにひこう」と意識し続けると人はその動作自体に慣れてきます、箸の持ち方は、最初は持ち方を意識して、食べます。しかし、その行為自体に慣れて来ると、意識せずとも身体は大きく動き、大きく引けるようになります。
このように、無意識でも持満の状態を作ることを「自満(じまん)」といいます。
浦上範士:総体に力が満ちわたり、自然に機が熟して離れるのを「自満(じまん)」と言う。
あるいは、会を保っている間にさらに伸びれる会とも表現されます。
鈴木伊:真の会は、それから八方に伸合い詰合ううちに生ずるものであって、(三巻、P161)
■身体全身の力みはとりましょう
次に、矢の長さいっぱいに弾くためには、全身の筋肉を緩める必要があります。
先ほど申し上げた通り、矢の長さいっぱいに弾くと、「お腹を膨らませる力」「胸を広げる力」「脚で地面をおす力」なども関わってきます。すると、全身の筋肉をあらかじめ緩めておく必要があることがわかります。
松井範士:はじめより、体勢を堅く作り上げると、会に入る場合躰に凝りが残って、どうしても完全な伸合いができなくなり、したがって気息もこれに伴わず、体と気合いが別々になって、その結果早気となり「モタレ」ともなるのである。
狙いは固定しすぎないようにする
会における狙いは、固定しない方が良いです。
そして、矢の長さいっぱいに引くことを徹するようにしましょう。
それは、教本の先生の文章を読むと理解できます。
前提として、矢は両腕を左右均等に離してまっすぐ飛びます。
佐々木範士:まっすぐ飛ばせるための力の働きは如何と言いますと、図のごとく、左手と右手は力学的に言って円運動をなしています。
左右の力が均等に働いている間っは、まっすぐに保たれていますが、その平衡が崩れると、矢の方向はたちまち変わってしまいます。(三巻、P163)
佐々木範士:左右の拳の力が均等に離れた時には、矢はついている方向に向かって飛んでいくのが自然の理です(三巻、P174)
円運動と表現されていますがこの文章の最後に
佐々木範士:まず、人体の皮肉を取り去った骨格を考えてみます。そうして、各関節ががっぷりハマるところから始めて、あらゆる骨を一分の隙のないように組み立てて
と記されています。「隙のない」状態とは、「身体全体の筋肉」」に刺激がかかった状態と表現できるので、「矢の長さいっぱい引いた」状態を作り上げることが大切です。
そして、左右の腕を伸ばされるようにするためには、28メートル先のまとに対しては、
・的の左側を的の中心に合わせた状態
を基準としています。
それは、会の時に弓の右端の面が斜め前に向いていても、離れたあとの、弓の右端が真っ直ぐに向き、そこで矢が真っ直ぐに放たれるからと解説されています。
祝部範士:図示したように、左手のきめで、弓体が捻られていて的に正面しておらず、離れる時の矢の筈口と、矢が摺って行く弓の右端とは、的からの直線上に並んでいる。ここで離れるから、この矢は離れに当たって手の内の工作などせずとも直進する(三巻、P177)

が、この内容に、正確性があるか、微妙です。
この内容が、何センチの的に何センチのところから当てた考え方かが不明だからです。
一応、範士の感覚的な情報であると、「尺二寸の的、28メートルの距離」であれば、上記の図のように合わせた状態になります。
祝部範士:十五間(約28メートル)の距離から視れば、中指の頭の大きさ位に見えて、弓体の中に二つ並ぶ位に見えるのは、前に図示した通りである。(三巻P178)
しかし、自分の矢の長さいっぱい引けてなかったり、手首に力が入っていたりすると、自分の顔の向き加減、見る場所など微妙に変わってしまいます。
狙いだけがあっているだけで、その通りに飛ばない可能性があります。
ですので、狙い目については、
・やってはいけないことをハッキリさせる
・それ以外の内容は参考程度に見ておく
ようにした方が賢明です。
なぜか、教本を見ると、「狙い目」だけ勉強しても意味がないことがよくわかるからです。
まず、矢乗りに関しては、
矢乗りだけ変えても、意味がない
ことがわかります。
狙い目が前や後ろにずれているなら、「その狙い目だけ」を変えれば問題ないでしょ。と考えたくなるかもしれません。
この考え方は、教本で否定されています。そのようにしても、あなたの身体の姿勢は崩れたままで、修正されていないからです。
矢の長さいっぱいに引き、左手小指が弓で締められ、右手首の力が抜けていれば、矢乗りは真っ直ぐに向いています。狙い目だけを変えても、左右の拳が力んでいる状態、身体の軸がぶれている状態は直っているわけではありません。
祝部範士:肉体的その他の関係で、乗った矢ではどうしても前に出ると言う人に対しては、方便的に矢乗りを狂わせて、的中することを認めねばならない。(三巻P178)
祝部範士:怪しげな作製弓返りなどを行っている人など、必ずと言い得るほど矢は後ろ乗りだ。(三巻P179)
もしも、身体に起こっている何かしらの問題や作製の弓返りを直すことが、弓道の精神的な修養道につながります。それを隠して、矢乗りだけ直したとしても、何も意味がありません。
同様のことを佐々木範士はお話しています。
佐々木範士:的の後についている矢は、正しく放された場合は、矢は的の後ろに行きます。それを的に当てるためには、押手を前押しにするか、殊更勝手を強く引き切らねばなりません。
反対に、的の前についている人は、押手を強くして振り込むか、勝手を緩めるかしなければ、的に当たらないわけです。
これでは正しい射ができるはずもなく、また自然の理に反するわけで、ついた所に矢を飛ばせることこそ、真ぐなる弓と言えるので、ここに正射必中の境涯も生じます(三巻P174)。
このように、狙い目を合わせたとしても、種々の理由で狙いを合わせない方が良い理由は、いろんな角度で解説されています。
1、自分の顔の向き加減で視界が変わるから
祝部範士:射体自身が、面持ちを動かし顔を右に戻せば、的は透明に見える弓体の中に顔の動きにつれて入ってくるし、反対に顔を左に向ければ、的は弓体に離れてくる(三巻、P176)
例えば、左目が効き目の人は、本人の感覚として「弓の左半分を的の中心」に合わせても、実際は矢乗りが後ろになっていることが多いです。
2、「狙いをまっすぐに合わせようと」言う気持ちが心の迷いを生み出す
冨田範士:弓道における狙いは心の狙いである。・・・・・的中はまだ発射しない以前に、心中に把握している気構えであるのが本義であるから、ことさら狙いを詮議することは、弓道の外道とされている。(三巻P181)
3、最後の離れでずれてしまったら、やっぱり外れてしまう
高木範士:離れの良否によって異なる。矢の着点によって狙いを云々するのは、本末を転倒したことで正しくない。
このようなお話があるため。
矢の長さいっぱい引くことに徹する
のが良いでしょう。ですので、ほかの話は、参考程度に見ておきましょう。
千葉範士:狙いは人によって大分違う。的は弓の左側で割るのが原則であるが、的が弓の中にピタリと入る場合もある。
宇野範士:的を体に引き寄せる心持ちが大切で、これは体を心に取り戻して、体の中心に気分が収まるように心がけることである。
浦上範士:日置流では末弭から糸を下ろして握りのところで四寸開くのを定法としている。しかし、遠矢の場合は弓を照らし、甲羅着用の時は弓をて一尺三寸開いたのである。
高木範士:弓の左側から的を視るようにする。弓の手巾と頬に付けた矢と、右側の瞳孔から下した垂線との距離とによって種々度合いが異なるから、後方から第三者に見てもらって狙いを定める参考とするのが良い。
鈴木伊範士:極端に言うならば、目をもってうかがう左拳の確かさより、矢尺と口割の正しさに、遥かに中りありと断言し得る程、的中に重大な関係のあるものなのである。
松井範士:弓の狙いは、右の視線を主とし、左を従として的を見定める・・・
この「狙い」の規矩を基準に、弓の左側(藤の辺)を的の右側(的に向かって)に付ける、いわゆる的を丸く見る形と、的の中心へ付ける場合。以上二様の「ねらい」を正則とする。
間違った狙いについては、
松井範士:次のような「ねらい」方は間違っている。
(イ)弓を中心として左右両方同じ視度で弓を挟んでいる場合
(ロ)左を視線を主として的を見るもの
(ハ)篦「ねらい」のもの (三巻、P180)
冨田範士:高さは弓の矢摺り藤の藤頭が口割と同じ高さであり、地上に垂直である・・・・・・第二に、正しい物見において、右眼より弓を視れば、弓の左側の線が的を中心より縦に半切する位置にあることが大体標準である。(三巻P180)